遠藤周作「沈黙」とスコセッシ監督「沈黙」

1. 我善坊さん、コメント有難うございます。お気持ちはよく分かりますが、「議会から独立して」というのは立法権に対する例外措置、憲法の改正が必要で、実現は難しいでしょうね。
国家権力が、自らの権力基盤を揺るがすような制度設計を率先してやるとは、残念ながら思えません。


2. 国家権力については、最近、遠藤周作の原作を映画化した『沈黙』を見ながら、
宗教を弾圧する、その怖さを思い知らされました。
江戸時代初期の「禁教令」による切支丹の弾圧は実に厳しく徹底しており、「踏み絵」を武器に改宗・棄教を迫り、踏まない信者は、拷問を受けて最後は殉教に追い込まれます。日本人もここまで残虐になれるのだと思い知らされます。

もと職場の先輩のお宅で(出来の悪い写真ですが、都心にある眺めの良いところです)、
テーマをあらかじめ決めて小さなサロンが開かれます。夫婦連れで女性も参加します。
先週のサロンのテーマは『沈黙』でした。
原作を再読し、映画も家人と一緒に観て、参加。女性も含めて、沈黙どころか皆が喋って賑やかでした。


「切支丹の殉教をめぐり神の実在を問うた小説」とされる本書が書かれたのは1966年。英訳を1988年に読んだアカデミー賞受賞監督のマーティン・スコセッシが以来ずっと構想を練り、原作の50年後の昨年映画が完成したと話題になっています。
江戸時代初期の長崎五島列島の風景は台湾ロケだそうですが、映像が印象的です。
2時間40分の深刻で重い映画ですが、結構観客が入っているのに驚きました。


3. 以下、原作に沿って――主人公はイエズス会ロドリゴ神父。
恩師が信仰を捨てたという話しを確かめるため、弾圧されている貧しい隠れキリスタンの農民を救おうという意欲に燃えて日本に密入国するが、キチジローという信徒に裏切られ、囚われて、踏絵を踏めば、信徒は救われると迫られる。
信徒たちは拷問にあえいでいる。
それなのに神は沈黙している。
ロドリゴは苦悩する。

➡「迫害が起こって二十年、この日本の黒い土地に多くの信徒の呻(うめ)きがみち、司祭の赤い血が流れ、教会の塔が崩れていくのに、神は自分にささげられた余りにもむごい犠牲を前にして、なお黙っておられる・・・・」

➡「なぜ、神は黙っておられるのか私にはわからなかった。」

➡「<万一、神がいなかったならば・・・・>
これは怖ろしい想像でした。神がいなかったならば、何という滑稽なことだ。杭にくくられ、波に洗われたモキチや〜の人生は何と滑稽な劇だったか。多くの海を渡り、三か年の歳月を要してこの国にたどりついた宣教師たちはなんという滑稽な幻影を見つづけたのか。
➡神は、一言でも何かを信徒たちのために語ればいいのに。」

・・・・というように、ロドリゴは、キリスト教を信じ、天国を夢みて殉教する貧しい日本人を憐れみ、心から「奇跡」を待ち望んでいるのです。しかしそれはやってこない。


4. しかし最後に、彼自身も囚われ、棄教を迫られているその最中に、「神は沈黙していたのではなかった」と彼は確信します。
お前が「踏絵」を踏めば信徒の命は救われると言われ、彼らの拷問の苦しみを目にし、ロドリゴはついに神の声を聞き、「踏み絵」を踏みます。

➡「踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。・・・だが、その痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから」。

「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」
「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」

➡「その時、彼(ロドリゴ)は踏絵に血と埃とでよごれた足をおろした。五本の足指は
愛するものの顔の真上をおおった。この烈しい悦びと感情・・・・・」


5. 踏絵を踏み、棄教されたと幕府に認められたロドリゴは、「転びバテレン(神父)」と呼ばれ、江戸に送られ、切支丹屋敷に幽閉され、時々取調べをうけ、キリスト教禁制のための手伝いをさせられます。
岡田三右衛門という日本名と妻までもらい、30年あまり生き延びて、日本人とし
て病死します。
しかし、遠藤周作は本書で、ロドリゴは内心では決して棄教していない、最後までカトリック信者として生きたという見解を披露します。

イエズス会からは破門されもはやキリスト者とはみなされないにも拘らず、ロドリゴは自らをこう規定します
―――「私は転んだ。しかし主よ。私が棄教したのではないことを、あなただけがご存知です。

・・・私は聖職者が教会で教えている神と私の主は別のものであることを知っている。」


6. このような見方はおそらく遠藤周作というか日本独特の理解ではないかと思われます。異端と言われても仕方ないのではないか。

ところが、サロンのメンバーの信者の皆さんはこういうキリスト教理解に肯定的でした。
総勢9人のうち5人(2組の夫婦プラス1人)が洗礼をうけています。
日本のクリスチャンは約百万人だそうですから100人に1人。とすればこのサロンの割合は非常に高いです。
彼らだけではなく私の周りには比較的多くいます、理由は分かりません。たまたまかもしれませんし、昔の職場が海外勤務が長く、キリスト教文化に親近感を持っている人が少なくないということもあるかもしれません。

いずれにせよ、「キリスト教はヨーロッパだけのものではない。洋服のではなく和服のキリスト教があってもいい。西欧の父性的な厳しい宗教意識に対する母性的な宗教意識があってもいい」というのが遠藤周作のメッセージだったようで、それがサロンのメンバーであるキリスト者の共感を呼んでいるところが興味深かったです。

というのも本書は出版当時、正統的なカトリック教会本部からは「禁書」として扱われたこともあったそうです。


7. 最後に、映画『沈黙』に触れる余裕がなくなりましたが、ブルックリンの治安の悪い街に労働者階級の家に生まれ、自ら熱心なカトリック信者であるイタリア系アメリカ人のスコセッシ監督が原作に深く感銘し、映画の中でもロドリゴを共感をもって描いている点もまた興味深かったです。


必ずしも全能ではない、奇跡もおこせない神。
しかし「神は沈黙していない。いつも私たちの苦しみに寄り添い、ともに痛み苦しんでいる」
・・・そういう、弱いかもしれないが、慈愛に溢れ、ともに苦しんでくれる神が実在するのではないかという遠藤周作の想いが、アメリカ人のスコセッシに見事に伝わり、優れた映画作品になりました。