司馬遼講演「キリスト教文化と日本」や雑誌「道標」&「あとらす」

1. arz2beeさん、有難うございます。まだ『沈黙』をめぐって話が続きますが、「神を忖度するのは異端に思えます。神は絶対で・・・問答無用の存在と感じる」という指摘を興味深く読みました。

前回の、我善坊さんの「遠藤周作のいう「和服のキリスト教」はやはり異端ではないか?」に通じる問題意識だと思いました。

フェレイラ神父や井上筑後守の認識にも通じるでしょうか。フェレイラは言います
「この国は沼地だ。・・・我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」。
「この国で我々のたてた教会で日本人たちが・・・信じていたのは基督教の神ではない。日本人は(略)神の概念はもたなかったし、これからももてないだろう」

そして、前回のブログで紹介した言葉が続きます。
「日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力をもっていない。日本人は人間を超えた存在を考える力をもっていない」。


しかも、その日本人は、「私たちの知る限り最も賢明な人たちで〜」と聖フランシスコ・ザビエルは書いています。
岩波文庫に彼の「書簡集」があって、私は読んでいないのですが、ザビエルが、ある日本人から「神が世界の創造主で“絶対”の存在なら、なぜ今頃になってその教えを我々日本人に教え広めよと命じられたのか?」と質問された、このように日本人は賢い・・・と指摘しているそうです。


2.  ザビエルの話は司馬遼太郎の講演に出てきます。
キリスト教文化と日本」と題して同志社大学でやった講演がCDになっていて、最近ある人から頂いて聴く機会がありました。
こんなことを言っています。

(1) そんな賢い民族の日本人にもっとも分かりにくいのが“絶対”であり、世界を創造した唯一・絶対の存在としての“God?である。
“絶対”が分らないのが日本人だといってもいい。

(2) 神は、ある・ないという相対的な世界(科学はすべてこの世界)をこえている。
これが分らないとヨーロッパ文明が分らない。
私に言わせれば、真ん中・核心にフィクションをおく、ないものをあると言うための言葉と論理が要る。それがヨーロッパで哲学や文学や論理学が発達した背景である。

(3) 私は相対的な世界に生きる人間であり、仏教徒である。だから「絶対」は分からない。
仏教の中心は「空」だと思うが、これは“絶対”とは少し違う。むしろインド人が発明したといわれる“ゼロ”に近い。ゼロの世界に創造主はいない・・・・


3. 司馬遼はこういう話を、アメリカで洗礼を受けた新島襄創立の同志社で喋ります。
遠藤が描くフェレイラ神父の日本人論を思いだします。

新島への敬意を示しつつ、しかし日本ではたくさんのミッション・スクールが創設されている、ところがキリスト教はさほど拡がらない、なぜだろう?自分は異教徒〈仏教〉だが、それでも嘆かわしいと思っている、とも語ります。

司馬遼さんにしてはちょっと歯切れが悪い喋り方ですが、それだけ宗教、とくにキリスト教は難しいのでしょう。まして私など、何度もこのブログで取り上げて、まことに不遜の極みです。
あとは自分なりに考えていくしかないのでしょう。


4.ということで話題を変えて、このCDを頂いた某氏との交流を最後に触れます。
7歳年下ですが、いまも現役で整体の仕事をしています。
かたがた20年以上、東京と栃木とを行ったり来たりして、田舎ではもっぱら畑仕事と庭いじりを大事に日々を過ごしています。

先週久しぶりに会って、下北沢のカフェで喋り、CDと雑誌『道標』を頂きました。
『道標』は著名な思想家である渡辺京二石牟礼道子を囲む人たちが、熊本から発信しているユニークな雑誌です。執筆者はプロの物書きではありません。
某氏がここに連載している「庭の記」という文章を面白く読んだところです。

畑ではネギ、茄子、アスパラ、インゲン、ジャガイモ、オクラ等々、沢山の作物を育てます。
草花や野菜や鳥や虫たちと触れ合います。

例えば昨年3月20日の日記から ――
「・・・春の草花が満開、絨毯のような花畑になって眼を愉しませる。ホトケノザの赤、ナズナハコベの白、イヌフグリの清楚な花(横の写真)は淡いブルーの縁に、中心部が純白になっていて・・・そして菜の花の黄色、杏子の春色小紅(上の写真)、春爛漫。」

最近はインターネットのお陰でこれらの花々の画像検索ができて、PCで眺めながら楽しく読みました。
ここには人間はほとんど出てきませんし、まして神も出てこない・・・いやむしろ、神は、こういう世界にこそ偏在しているのかもしれません。

ローバート・ブラウニングの詩「春の朝」(上田敏訳)を思いだしました。

「時は春、日は朝(あした)、朝(あした)は7時、
片岡(かたおか、The hill-side)に露みちて、
揚げ雲雀なのりいで、蝸牛(かたつむり)枝に這い、
神そらにしろしめす(God’s in his heaven ---)
すべて世は事もなし(All’s right with the world ! )」

5. 私の方は、やはり素人が参加している雑誌『あとらす』を贈呈しました。
「「英国から」と「英国へ」−J.S.ミルの“自由論”を読みながら」という,こちらは人間しか出てこない雑文を早速読んでくれて感想を頂きました。有難いことです。

かましく一部を引用して今回を終えさせて頂きます。

「実に巧いですね。ゆとりある柔らかな文章でエピソードを連ねて、さてさて、どこへ連れて行ってくれるのかと、読者は楽しい旅へと誘われます。ちょっと長編小説みたいなふうでもありました。

〈略〉ロンドン市長サディ・カーン氏、悔やまれるジョー・コックス議員の死、そして最後にカズオ・イシグロ氏の登場。そこに今日の困難な状況に対しての川本さんの願いが託されていると読みました。
そして、この話全体が、実はJ・S・ミル『自由論』の額縁のなかに納められているものなのですね。「自由と多様性」は常々われわれにとっての希望、と深く共感するものです。そのことを実に実に柔らかい筆致で表現してくださったと思います・・・・・・」。