「信濃のコロンボ」と信濃追分「分去れの碑」

1. 花と緑の美しい季節になりました。神代植物公園の薔薇が咲き誇っています。
それぞれの花のイメージに合わせてどういう名前を付けるか、栽培者の楽しみでしょう。「イングリッド・バーグマン」「マリア・カラス」「ジナ・ロロブリジタ」など美女の名前が多く、「プリンセス・ダイアナ」も「プリンセス・ミチコ」もありました。



2.ところで前回友人がTV出演して、正調江刺追分を歌ったと報告しました。今回はその続きです。

(1) 出演したのは「信濃コロンボ」という長野県警捜査一課の警部が活躍するシリーズのテレビドラマです。
刑事コロンボ」という大人気だったアメリカのドラマの「本歌取り」で、よれよれの背広とレインコートを着てさえない風体の・しかし粘り強く殺人事件を追いかけ、かならず犯人をつかまえる刑事(ピーター・フォーク扮する)をお手本にしています。


(2) 「信濃コロンボ」の第4回の舞台は軽井沢の「信濃追分」で、殺人事件が発生、東京の「本郷追分」でも事件が起き、被害者が何れも北海道の江差町出身だというので、警部が捜査の足を伸ばす。そこで背景として、「江差追分」を歌う場面が出て来る、ここにセミプロである友人がエキストラとして登場して、奥様も合わせて踊りました。堂々として、とてもよかったです。


(3) この友人が雑誌「あとらす35号」に書いた文章「日本の民謡―追分節の変遷」から勝手に引用すると、


・「江差追分」は日本の民謡の中でももっとも有名でしょうが、これは舟唄であり、「危険な航海を冒して江差に来た北前船の船乗りや、ニシン漁の漁師たちは、無事に蝦夷地に着いた安堵感をこの歌に込めて歌った」。

・ところが、「追分節」という民謡のルーツは馬子唄であり、とくに「江差追分節」の原形は「信濃追分節」である。

・「追分」は、もともと「牛馬を追い、分ける場所」を意味し、そこから街道の分岐点を意味するようになった。

・全国に「追分」と名の付く場所は多くあるが、中でも信濃追分中山道と越後に行く北国街道の分岐点)がもっとも栄え、参勤交代の時代、街道一の宿場だった。


・ということで、「信濃追分」と「江差追分」とは深いつながりがあり、このテレビドラマはその歴史的事実をうまく使っています。


3. まずは冒頭で、信濃コロンボ警部が,「信濃追分」に友人を案内する場面があり、ドラマは軽井沢の観光案内にもなっています。


(1) ここが中山道と北國街道の分岐点というところに、「分去れ(わかされ)の碑」が立っています。この碑もテレビに映り、警部が説明する場面もありました。

(2)このシーンを見て、数年前に別の友人から教えてもらった「プリンセス・ミチコ」の歌を思い出しました。
「かの時に我がとらざりし分去れの、片への道はいずこ行きけむ」


(3) 美智子皇后は短歌の名手として知られていて、その作品は、永田和宏の「現代秀歌」(岩波新書)にプロの作者と並んで、取り上げられています。永田氏はこう解説します。


―――「ある時にみずからが選択したひとつの道があった。当然、選択しなかった方の道もあったはずで、そのあり得たかもしれないもうひとつの道は、もしそちらを択んでいたらどのような方向へ推移していっただろうかと思い返す、そのような歌ととった」


そして続けて ――「「かの時」とは何かは明確には何も述べられてはいないが、当然のことながら、それは皇太子妃になるかどうかという選択であったことだろう・・・・」

ただし、ご本人はとくに深い意味はなく、学生時代から軽井沢によく行っていて、この「碑」を見た時にふと浮かんので作った、と言っておられるそうです。

教えてくれた友人は、「日本が戦争を択んだとき」という解釈もあるのでは、と言っていました。


何れにせよ、読む人の誰にも、「かの時」はあったでしょう。読む人自身のことに思いを馳せることの出来る、「秀歌」だと思います。あなたの「かの時」はいつ・どういう状況だったでしょう?


4. 最後になりますが、この「信濃コロンボ4」を見て、アメリカの元祖「コロンボ」とのドラマづくりの違いを感じたので、そのことも触れておきます。

日本のドラマは実にウェットな物語になっているなあと痛感したことです。本筋とは直接関わりない物語や場面が多く、
 

(1) 殺人犯は麻薬グルーのボス。ここに江差出身の青年が脅されてメンバーに入っている。姉が1人いて、弟の身を案じて自分が身代わりになろうとする、何ともセンチメンタルな場面が出て来る。

(2) この姉の友人が軽井沢で洒落た店をやっていて、殺人事件に巻き込まれる。彼女は東京にいる富裕な父親と、事情があって疎遠にしている。信濃コロンボ警部は捜査を続けながら、本筋にまったく関係ないが、この親子の仲をとりもつ努力をする。


(3) 最後は、逮捕された麻薬のボスに、警部が悔い改めるように説教する場面で終わる!


(4) これに比べて、アメリカの「コロンボ」は、何ともドライです。

犯人は常に、ロスアンゼルス郊外の豪邸に住む、知的職業につく大金持ちのエリートや著名人です。IQの高そうなインテリです。傲慢でもありスノビッシュでもあります。
それを追求するコロンボは、当初は犯人から見下される、庶民の代表格です。


犯人は最後に必ず罪を暴かれますが、最後までふてぶてしく、悪びれることなく振る舞います。
この、「庶民」対「富裕層のエリート」という対決の構図が、そして最後は後者が前者に敗北するというドラマが、この番組の人気の秘訣でしょう。
それはアメリカの「反知性主義」とつながるかもしれません。


(5) えてして日本のドラマでは、「エリートの悪」対「庶民」の対立という物語はあまり好きではなく、むしろ対立を包み込むウェットな人間関係が望まれているのではないでしょうか。

(6) 因みに、「反知性主義」とは、「日本ではネガティブな意味に使われるが、アメリカでは必ずしもそうではない」というのが『反知性主義アメリカが生んだ「熱病」の正体』(森本あんり、新潮新書、2015)です。

―――「反知性主義は、知性に反対する主義ではない。それは、一部の権威や特権階級が知性を独占することへの反発であり、徹底した平等主義によって裏打ちされている。
権力と結びついた知性は、知性が本来もつ「反省」の能力を失う。反知性主義は、知性のこうした堕落への批判を含んでおり、むしろ知的な運動であるとも言える。」――


日本の、「何でもウェットな人間関係に解消しよう」という思想とはだいぶ違うように思えますが、どうでしょうか?
もっとも、この国ではそもそも、権力と知性とが結びついているかどうか自体が問題かもしれません・・・・・