いまウェーバー『職業としての政治』オルテガ『大衆の反逆』を読み返す

1. 東京は梅雨にしては雨が少ないですね。田舎の畑では作物だけではなく草もまたまた伸びてきていることでしょう。

今年もそろそろ半分が終わりそうですが、何だか楽しい話題が少ない気がします。

私の場合 社会の出来事は新聞から知るのが主ですが、新聞によって取り上げ方が違うでしょう。東京新聞を眺めていると、どうも暗い気持になります。産経新聞であれば(読んだことはありませんが)「やった、やった。次はいよいよ改憲だ」と明るい気持になるのかもしれません。
世論が分裂しているのは、日本も欧米と同じでしょう。


ただ欧米と違うのは、選挙に意外性がないことですね。
英国の総選挙は、「労働党躍進、若者が支え」とあり、18〜34歳の63%が労働党に投票した由。フランスの結果も新鮮な印象でした。


もっとも、老い先短い老人が、いたずらに嘆いたり、逆に勇ましい意見を吐いて「俺は憂国の士だ」なんて言ったりするのも(最近、ある同世代の友人から「国を憂いている」という三島由紀夫みたいな発言がありました)、どうかなと思います。


「青年即未来」。この国を憂えて、どうにかしようと考えるのは若者に任せた方がよいのではないか。
暴論と言われるでしょうが、そもそも75歳(80歳でもいいが)を超えたら、以後選挙権はないとしたらどうでしょう?すでに社会への貢献度が低い・これからも寄与度は低くなる一方の人間は黙っていた方が良い、と真面目に考えるのですが・・・・


2. という気持で、この国の政治に老人は黙っていようと考えていますが、それでも気になって、せめて古(いにしえ)の賢人の意見を確認したくなります。

東大駒場のキャンパスで憩いながら家から持参した2冊の文庫本を読みかえしました。

1つは、マックス・ウェバーの『職業としての政治』(1919年)もう1冊はオルテガの『大衆の反逆』(1930)です。何れも「古典」、「過去」の産物です。
しかしオルテガは、「歴史とは、自分の背後に多くの過去すなわち経験をもつということ、成熟した文明を維持し継続していくための第一級の技術である」と言います。


3. まずはウェーバーですが({訳者・脇圭平}、

(1) 政治の本質的属性は権力であり、権力を追求せざるをえない。「倫理」ではない。
しかし、その事実は、政治の実践者に対して特別な倫理的要求を課す。

(2) 「政治にタッチする人間は、権力の中に身をひそめている悪魔の力と手をむすぶのである」。「もしこれが見抜けないなら、政治の結果だけでなく、政治家自身の内面をも無惨に滅ぼしてしまう」。

(3) だから、可測・不可測の一切の結果に対する責任を一身に引き受け、道徳的に挫(くじ)けない人間、政治の倫理がしょせん悪をなす倫理であることを痛切に感じながら、「それにもかかわらず!(デンノッホ)」と言い切る自信のある人間だけが、政治への「天職(ベルーフ)」を持つ。


4. 今度はオルテガです。ルソーの『社会契約論』が18世紀を代表し、マルクスの『資本論』が19世紀を象徴するように、オルテガの『大衆の反逆』(1930年)は20世紀を表現している、と評する人がいます。


(1)  本書は「今日のヨーロッパ社会において最も重要なのは、大衆が完全な社会的権力の座に登ったという事実である」という文章から始まります。

訳者の神吉敬三は、「オルテガは、社会を少数者と大衆のダイナミックな統一体としてとらえ、社会は少数者が大衆に対して持つ優れた吸引力から生まれると考える」。


(2) ここで「大衆」とは、自分は「すべての人」と同じであると感じ、そのことに喜びを見出しているすべての人のことであり、
他方で「選ばれた少数者」は、自らに多くの、かつ高度の要求を課し、すすんで困難と義務を追う。(オルテガは彼らを「真の貴族」とも呼びます)。

(3)そして、社会に方向を与え、共同の計画を提示しうる真の「少数者」と大衆との相互行為が社会の原動力である。
➡彼はこうした基本的な判断に立って、現代社会を大衆支配の社会と断じ、その可能性と危険性とを分析していきます。


(4) その危険性とは――現代は大衆人に恐るべき欲求とそれを満足させるための手段をあたえたが、その結果、過保護の「お坊ちゃん」と化し、(略)自分があたかも自足自律的人間のように錯覚し、自分より優れた者の声に耳を貸さない人間と化してしまったのである。
➡これが「大衆の反逆」の本質であり、こうした大衆人が社会的権力の座を占めたところに、現代の危機の本質がある・・・・


5. 注意しなければいけないのは、オルテガが言う、この2つの人間のタイプは、「社会階級による分類ではなく、人間の種類による分類なのである」。
「以前ならわれわれが「大衆」と呼んでいるものの典型的な例たりえた労働者の間に、今日では、錬成された高貴な精神の持ち主を見出すことも稀ではないのである」。
逆を言えば、「権力者」の中に少なからず「大衆」がいるということです。


しかし、現実には、「選ばれた少数者」というとき、それは「選良」であり、エリートであり、具体的には政治家であったり高級官僚であったりすると、「大衆人」である皆は考えるでしょう。

もちろん私もそう考える「大衆人」の1人ですが、
そうであればこそ、ウェーバーの言う「政治」に携わり「権力」を追求し「悪魔と手をむすぶ」存在である彼らが、まさにオルテガの言う「真の“選ばれた少数者”」であって欲しいと心から願います。

願わくば、形式的には「選ばれた少数者」である彼らに、忙しい時間の合間を見つけてでも、この2つの名著を読みかえして頂きたい。

そして、例えばオルテガの以下のような言葉を胸に刻んでほしいと思う者です。
(1) 「政治において、最も高度な共存の意志を示したのは自由主義的デモクラシーであり、隣人を尊重する決意を極端にまで発揮したものである」
(2) 「自由主義とは至上の寛容さなのである。・・・それは、多数者が少数者に与える権利なのであり、したがって、かって地球上できかれた最も気高い叫びなのである」。


言うまでもなく、いまの与党はここでオルテガが言う「自由」と「民主主義」を党名にしているのですから。