新島襄の漢詩「寒梅」に思う。

1. 前回は、7月初め、若者たちと朝早く会って「社会起業家精神」について喋ったことに触れました。
その数日前には、東京鶯谷駅に近い「吟道会館」で詩吟の先生たちと話をする機会がありました。
僭越ながら、同志社創立者新島襄について駄弁を弄したので、今回はその報告です。


酷暑の毎日ですが、その中で冬の寒さを思いだして頂くために、新島の「寒梅」という漢詩を紹介します。


「庭上一寒梅    (庭上の一寒梅)
笑侵風雪開 (笑つて風雪を侵して開く)
不争又不力 (争はず又力(つと)めず)
自占百花魁 (自(おのずか)ら百花の魁(さきがけ)を占(し)む)

詩吟の先生でもある友人某君の解説は以下の通りです。
――庭先の一本の早咲きの梅が風雪に耐えて花を開いている。まるで微笑むかのようである。
争いもせず、ことさらに務めもせずに、自然と百花にさきがけて、寒さの中に超然と咲いている。―――


新島には別途「真理は寒梅の如し。敢えて風雪を侵して咲く」という言葉があります。(のち日銀総裁になった教え子の深井英五あての色紙に書き贈った)。
いま京都の同志社大学のチャペルの前庭に「寒梅の碑」として、この文句が刻まれています。


2. 「寒梅」の五言絶句に興味を持ったのは最近のことです。
数年前から上記の某君に頼まれて、詩吟および和歌朗詠のコンクールの審査員の1人をやらされています。参加者は毎回50人、学士会館で200人ほどの聴衆の前で吟ずるのですが、「審査員の1人は素人も居た方がいい」という主催者の判断で、厚かましくも仲間に加わりました。
お陰で、漢詩そのものに触れる機会が出来て、なかなかいいものだなあと思うようになりました。

機会ができた1つはコンクールに加えて、審査委員長をしている石川忠久という著名な漢学者の講演があり、そのお陰で漢詩についてあらためて学ぶ機会が増えたからです。
もちろんコンクールでは毎回課題の漢詩と和歌が決められてその中から選んで吟じます。したがって多くの詩に接することになります。新島襄の「寒梅」も今年の課題詩の1つでした。


課題には他に、高啓という明の時代の人の「胡隠君を尋(たず)ぬ」という詩もありました。

   「渡水復渡水    水を渡り、また水をわたり、
    看花還看花    花を見、また花を見る
    春風江上路    春風 江上の路
    不覚到君家    覚えず 君が家に至る」

これも某君の解説によると
「「水を渡り」と「花を看る」を重ねたことが1つの技巧となっている。
川の多い江南(揚子江の南、蘇州がある)の風景と花の咲いている温和な春景色。
広々とした田園風景の中を、作者が飄々として行く。
行先の「胡」君も隠士だが、訪ねる本人も隠士である。隠士とは、世俗を避けて清閑な暮らしをする者である・・・・」


この詩も、読みながらのどかな作者の気分が伝わってくるようです。
「いつの間にか君の家に着いてしまった」という結びの句が、余韻を残します。

「やあ、しばらく。待っていたよ」と友人が招きいれて、早速2人で冷えた白ワイン(?)の杯をあげる、そして川の流れや咲く花を眺めながら語り合う。世俗の話をしない、人の噂もまして悪口も言わない。
「最近は、古いものを読みかえす時間が増えたよ。いまは仲間とアリストテレス倫理学を読んでいる」
「そういえば僕も、ディケンズをもう一度読み返しているんだ・・・」
なんて会話がはずんでいく・・・・・


3. 漢詩はなかなかいいものだなと、この年になって痛感しています。
石川先生は、とにかく漢詩が大好きです、講演でも、李白杜甫は世界一の詩人と思う。シェイクスピアだって敵わないのではないか。この2人が同時代に詩作をしたということは奇跡である・・・などと熱弁を振るいます。何事であれ、人間ここまで「惚れる」ものがあるというのは大事だなと感じます。


そういえば、今年の4月22日の東京新聞夕刊の「大波小波」というコラムに、こんな文章がありました。

百田尚樹「中国を偉大な国と勘違いさせる「漢文」の授業は廃止せよ」(『SAPIO』)5月号」には唖然とした。日本人は、中国への危機感が薄い。それは古典文学などを通して漠然とした「中国への憧れ」があるからで、その元凶が漢文の授業らしい。漢文は「趣味の世界」なので廃止すべきだというのだ・・・・」。


私は「SAPIO」という雑誌に載った原文を読んでいないので孫引きですから、誤解もあるかもしれません。しかしこのコラムの筆者の指摘通りだとしたら、驚きです。
漢文・漢語を大事にすることと、いまの人権無視の中国を批判することとは、まったく別次元の話ではないでしょうか。

日本語の成り立ちそのもの、そしてその後も漢語の存在がどれだけ日本語を豊かにしたか・・・は、日本人の常識だと思っていましたが。

てなことを書いていたら、冒頭に紹介した新島襄漢詩についてうんちくを披露する紙数がなくなりました。
しかし明治の時代、知識人はよく漢詩を作りました。鴎外は総数230首、漱石は190首(彼は英詩も作りました)。乃木将軍の詩も秀作との評判です。

新島の場合は、21歳から10年間アメリカで学びました。その前と、帰国してから10年経って死去する5年ほど前から詩作を再開しました。上海から密出国(当時まだ鎖国の禁があった頃)してアメリカに行こうとするときに作った詩(「男児志を決して千里に馳す」で始まる)もあり、函館港に詩碑が建てられています。

「寒梅」は、1889年(明治22年)12月大磯での作と推定されています。46歳11カ月で死去する直前です。病をおして同志社の大学部設立のための募金活動に上京中に発病して大磯で療養、この地で亡くなりました。

中断の時期が長いため総数は50首に過ぎませんが、その中で「寒梅」はなぜか、詩を吟ずる人たちに愛されて、いまもよく歌われます。
You tubeで聴くことも出来ます。鴎外や漱石を吟じる人はあまりいません。
アメリカで洗礼を受けて神学校に通い、宣教師として帰国し、キリスト教主義を基本とする教育が日本再生の鍵となることを信じ、志半ばで亡くなった新島襄が他方で漢詩を愛し、その思いをこめた詩を好んで歌う人がいまも居る。

漢詩を愛し、歌い、作り続けるという日本人の文化を、これからも守っていってほしいと願う者です。
私の身近にも大学時代の友人が1人、もとの職場の友人が1人、何れも退職後ですが、漢詩を熱心に作っています。