第22回茅野市平和祈念式に出席して

1. arz2bee さん、「小倉昌男さんの理解が進んだ」とのコメント嬉しく拝読しまし
た。私もかねてから尊敬する人物です。大学での「社会起業論」の講義でも氏のことを何度も語ってきました。


2. 8月6日早朝には、22回目の「茅野市平和祈念式」に参加してきました。一昨年の戦後70年目の式に出て以来です。


朝7時50分から、主宰者や来賓の挨拶、広島・長崎両市長からのメッセージが読み上げられ、茅野市が主宰する「広島平和の旅」に参加した高校生や中学生の報告のあと、8時15分に合わせて黙とうをし、献花をし、「原爆許すまじ」を歌って散会しました。
場所は運動公園の一角にある「平和の塔」の前で100人ほどの参加でした。
挨拶の中で「今日もあの日のように暑い夏の朝」という言葉が何度も出ました。


3. いま住んでいる茅野市豊平は、ペスタロッチの研究で知られる教育学者・長田新の出身地です(当時は豊平村)。
氏は広島文理大教授のときに広島で被爆し重傷を負いました。日本教育学会の初代会長。戦後、平和運動にも積極的に参加し、原爆を体験した少年少女たちの手記を集めた『原爆の子―広島の少年少女のうったえ』を岩波書店から刊行、映画化もされました。


この日は、同氏の伝記「『原爆の子』の父長田新」(2014年本の泉社)の著者、川島弘さんも来られて挨拶がありました。
――「反核平和運動のシンボルともいうべき人物がこの茅野の地に生まれ、今年も平和祈念式が執り行われることは、長田新の生涯をかけた強い意志が脈々と故郷の地に息づいているものと感じます」。

4. 22年前の1985年にこの「祈念式」が始まった経緯は知りませんが、「平和の
塔」に燃えている「原爆の火」について、これを22年前に福岡県の星野村から持ち帰った女性が居て、彼女からその報告がありました。
茅野から片道16時間かけて、「火」を受け取りに他の2人とともに出かけた。その2人も亡くなり、このことを知る人も少なくなったのでその事実と思いを伝えたい」という話でした。


(1)いわゆる「原爆の火」については広島市の公式ホームページに以下の説明があります。
―――広島市への原爆投下によって発生した「原爆の火」は広島市内にはなく、福岡県八女(やめ)市星野村にあり、現在も保守されている。
これは、同村出身で当時兵役についていた男性が、市内で書店を営んでいた叔父の消息を求めて被爆後の広島に入市し、同書店の地下倉庫跡で燻っていた火を懐炉に移し、同村に持ち帰ったことが始まりである。
この火は個人が管理していたが、1968年(昭和43年)に「平和の火」として星野村が、その後市町村合併に伴い八女市が引き継いでいる。

(2)男性の名は山本達雄さん、2004年に亡くなりましたが、ネットにはたくさんの関連サイトがあります。この話は本にも映画にも歌にもなりました。


・山本さんは、兵士の1人として広島で悲惨な後処理を担い、終戦となって故郷の星野村に帰り農業に従事したが、大切に持ち帰った火を仏壇に灯し、それを絶やさないために、いろりや火鉢にも移し、20年以上誰にも知らせず家族とともに守り続けた。

・1966年のある日、汗ばむほどの季節になっていたのに、まだ家族がこたつに火を入れているのを、たまたま茶の取材で訪れた新聞記者が不審に思ったことから、山本さんが始めて原爆体験を語ることになった。


・当時の村長の耳にも入り、村民の要望として役場前に「平和の塔」が建てられ、「火」は村が引き継ぐことになった

・1988年には、ニューヨークの国連本部で開催された国連軍縮特別総会に向けた「平和の火リレー」にも用いられ、2002年に行われた米国横断の平和行進でも使われるなど、海外でも反戦のシンボルとなっている。


5. 式典では茅野市長が挨拶し、122か国の賛成で7月に採択された格兵器禁止条約に、日本が会議にさえ参加しなかったことを残念に思う、と語りました。

6日に広島市長も、9日に長崎市長も条約の採択に触れました。
――広島市長は、日本政府には条約の成立をめぐり、核保有国と非保有国の間に生じた溝を埋める「橋渡し役」として「本気で取り組んでいただきたい」と要望した――


前回のブログの小倉昌男さんにコメントを頂いたarz2beeさんも「なぜ核兵器禁止条約に参加しないのだろう」と題するブログを書いておられます(8月10日付)。とても素直な疑問ではないかと心に残りました。
http://blog.goo.ne.jp/arz2bee/e/abff64b532d89593c9b67b1c2444f498



茅野市平和祈念式のプログラムの冒頭には、写真とともに、写真の説明が載りました。
―――「核兵器禁止条約」の交渉会議が開かれた国連本部の日本政府席に置かれた折り鶴。
翼には「wish you were here 」あなたがここにいて欲しい、と書かれていた。――


「禁止条約は核兵器のない世界に資さないばかりか、逆効果になりかねない」(菅官房長官)というのが日本政府の公式見解のようです。

しかし果たして日本政府は、政治家や官僚は、本当に・真剣に考えてこういう判断をしたのでしょうか?「逆効果にならないように主体的に努力すべき」国こそ日本ではないのか、という意識はなかったのでしょか?
広島や長崎の市長が述べたような「要望」が国民の気持に少しでもある、それにどう答えるか、真剣に考えたことがあったでしょうか?


7月7日の共同通信は、「米、「核禁止」会合の欠席要求」という見出しで、
「条約に反対している米政府の高官が6日、交渉結果について議論する関連会合の欠席を要求するメールを、日本を含めた同盟国などに送付したことがわかった。メールの全文を共同通信が入手した」と報じています。
為政者は、arz2beeさんのような、少なからぬ国民の素朴な疑問に真摯に答えることなく、何よりも、このアメリカの要求を最優先したのではないでしょうか?