茅野市豊平の畑で、丸山眞男も思い出す

1. 当地も長雨と日照時間の不足が続いています。
18日付信濃毎日には「長野市飯田市では今月、平年の3倍ほどの降水量を記録し、日照時間は3割少なく、ブドウやリンゴなどの着色が鈍ったり、野菜の生育が遅れたりしている」とあります。
AI や核やネットの時代といえども、「自然」に対しては、私たちは謙虚になるしかありませんね。

2. 我が家のささやかな作物は、雨の合間を縫って、娘夫婦が滞在している日の朝、4人で早めに収穫しました。ジャガイモはまずまずの出来でしたが、枝豆は囲いをしなかったこともあって、ほとんど鹿のご馳走に提供してしまいました。
頼まれてとうもろこしも大量にもぎました。
隣の友人の畑のトマトも、日照不足で出来もいまいちのようです。


早くも来年の畑のことで地元の人と話しをしています。
良い休耕地があると言うので雨の中を見せてもらいました。

有賀さんという地元農家の一人息子が持っている土地でいまは休耕地になっています。
仕事は引退しましたが家族と横浜に住み、月に1〜2回、ここ豊平上槻木の両親の家にやってきます。
父親は14年前に77歳で亡くなり、以後母親がひとりで家と畑を守ってきましたが、昨年亡くなりました。

今年は新盆で8月14日に家人と2人でお参りしてきました。


3. 私たちは「有賀さんのおばさん」と呼んできましたが、長い付き合いでお世話になりました。畑仕事は長くもっぱら家人の方の趣味で、私は引っ張られて付き合っているだけです。

彼女は、おばさんから畑づくりの基礎をいろいろと仕込まれました。
畝づくりをいかにきれいにやるかといったことです。
夫婦で主としてパセリを作ってJAに出荷してささやかな収入源にしていましたが、毎年8月末の出荷の時期には袋詰めも手伝いました。


家人はこういう仕事や田舎暮らしが好きで、「あんたは農家の嫁になればよかったねえ」とよく言われていました。
「みやこは合わんじゃろ」とも。
夫婦健在のときは我が家にも来てもらい、先方の家にもよばれました。
穏やかな、本を読むのが好きなおじさんで、なかなかのインテリでした。

カラオケも大好きで、居間に大きなセットが置いてあり、そこで二人で一緒に千昌夫の「北国の春」を、おばさんは一人で美空ひばりの「みだれ髪」を歌いました。
農業は夫婦2人の共同作業です。おまけに子どもは「みやこ」に行ってしまい、そんな状況で夫に先立たれた寡婦の寂しさと一人で農作業を続ける苦労は大きかったと思います。

息子さんとそんな思い出話をしました。


4. それにしても、有賀さんのところも今の畑を借りているオーナーのところも、農業を継ぐ人がなく、休耕地が多いです。

税金だけ払っている訳ですが、子供たちも「土地は要らない、相続したくない」と言っている由。
自然相手の農作業がたいへんな上に、昔に比べて機械化されて楽になった部分はあるが、それだけに設備投資がかかる。トラクターやコンバインなどを揃えると2千万円ぐらいのお金がかかる。これではとてもやれない。
・・・・・ということで、荒れた休耕地がどんどん増えていきます。


私なんかが考えてもどうしようもないのですが、話しを聞き、土地を眺めながら、心配になってきます。
日本社会の未来、何が心配といって、高齢者の医療・社会保障、教育、農業と過疎地の問題この3つがいちばんではないかという気がするのですが、どうでしょうか?


為政者のリーダーシップを期待するしかないのでしょうか。


5. 話は変わりますが、前回のブログで茅野市平和祈念式と核兵器禁止条約について触れました。後者について「理想論だ。政治の現実は甘くない」という反論もあるでしょう。


しかしMasuiさんからFB にコメントを頂き、ブログを書いている当人より真摯な姿勢に感じ入りました。「原爆に対する怒りと核兵器廃絶への意思を一層強くしました。いろいろなしがらみに絡まれて、簡単で基本中の基本の真理を見失う国には二度としてはなりません」とあります。

Masuiさんのコメントに、丸山眞男が生前強調した「政治的リアリズム」を思い出しました。
本郷31番教室で大昔の1960年に受けた「政治学」の講義で、彼はこう言います。


「政治的リアリズムは、なによりも状況認識の問題である。つまり、状況の読みの深さ、浅さが、第一に政治的成熟度を決定する。」(東京大学出版会丸山眞男講義録」第三冊10頁)

「・・理想や理念と現実を固定的に分離し、「理想はそうだけれど、現実は云々」というような形で、一時点の状況を固定化する思考、あるいは単に次々と起こるイヴェントを後から追いかけ、これに順応するだけの状況追随主義もまた、実は政治的リアリズムに似て全く非なるものである」(18 頁)

「状況はただ客体として前にあるものではなく、actor(注:政治的状況を構成する主体の単位。選挙人、政党、経団連、政府、日本、国連・・等々)の行動を通じて刻々変化するものである。(略)だから、状況を、所与の現実として捉えずに、もっと可塑的なもの、操作的なものとして捉えるのが本当の政治的リアリズムなのである」(19 頁)

そして、このあと、「政治は可能性の技術である」というビスマルクの有名な言葉の解釈に入ります。


最後に別の機会に喋った丸山の以下の言葉も紹介します(岩波新書『日本の思想』から)

「民主主義も、不断の民主化によって辛うじて民主主義でありうるような、そうした性格を本質的にもっています。民主主義的思考とは、定義や結論よりもプロセスを重視することだといわれることの、もっとも内奥の意味がそこにあるわけです」(P156 )

「民主主義は(略)、非政治的な市民の政治的な関心によって、また「政界」以外の領域からの政治的発言と行動によってはじめて支えられるといっても過言では
ないのです」(P.172)

そして、「芸術や教養は「果実よりは花」なのであり、そのもたらす結果よりもそれ自体に価値がある」(P.178)
これに対して、「政治にはそれ自体としての価値などはないのです。
政治はどこまでも「果実」によって判定されねばなりません」〔同〕。