イシグロの小説を読む「愉しさ」、ノーベル平和賞と「記憶」

 

1. 我善坊さんコメント有難うございます。ご指摘の点は、まったく異存はありません。

「記憶」がテーマとしていちばん大きく取り上げられるのが最新作『忘れられた巨人』ですね。そこでは主人公は、「失われた記憶(例えば、ブリトン人とサクソン人との憎しみや戦い)」を取り戻すことは果たしてよいことか?を自問自答します。


他方で、「memory」にはいろんな意味があるので、『日の名残り』の場合は、「remembrance」に近い「思い出」「追憶」といった日本語の方がふさわしいように感じます。
“If life has a base, it is a memory”と言ったのはヴァージニア・ウルフです。「思い出だけが人生よ」と私は勝手に訳しています。


ただ他方で、「この小説のテーマは何か?」と考えながら読む人がいるかな、ということも考えます。


2. 私たちは何故、(必要もないのに)小説を読むのか?少なくとも、知識や情報や観念を得ようと思って読むのではない。私であれば、

(1) ことばすなわち文章の魅力
(2) 物語や登場する人物の魅力
(3) 細部、小道具の魅力、に尽きるように思います。
イシグロの小説が優れているのはこの3つが素晴らしい点にあって、「選考委員会」はもっともらしい授賞理由や「オースティンやカフカを併せたようだ」などと言わざるを得ないのでしょうが、少なくとも私はそんな理由で彼の小説を読むわけではない。


3. (1)を補足すれば、これは孫引きですが、
「あるときに画家のドガが詩人マラルメに向かって、詩を一つ書いてみたいのだが、想はあるんだが、どうもうまく書けない、と言ったとき、言下にマラルメが、詩はことばで書くものであって観念で書くものではないと言ったという」(『方丈記私記』堀田善衛)。


「言葉の芸術」である以上、小説にも同じことが言えるでしょう。
イシグロの小説の最大の魅力は、抑制され、洗練された、美しい文章にあると思います。
これは推測ですが、英語を母語ではなく、異国の言葉として意識的に、主として書物から習得したいうことも影響しているのではないか。


(2)については、これも先人の言うことを引用すれば、
「小説は楽しくなければならない。(これは)もっとも大切な小説の特質・・・
ある小説を読んで楽しく思えないならば、その作品は、その読者に関する限り、何の価値も持たない」(『世界の十大小説』サマセット・モーム)。


もちろんモームは「楽しみという言葉にはいろいろな意味が含まれて」いて、楽しみは「『嵐が丘』や『カラマ―ゾフの兄弟』からも得られるのである」と補足します。
例えばイシグロの『私を離さないで』は、ご承知の通り、普通の意味での「楽しい」作品ではありません。


ちなみに、アメリカの小説家ナボコフは、「物語」についてこんなことを言っています。
「文学は、狼がきた、狼がきたと叫びながら、少年がすぐうしろを一匹の大きな灰色の狼に追われて、ネアンデルタールの谷間から飛び出してきた日に生まれたのではない。
文学は、狼がきた、狼がきたと叫びながら、少年が走ってきたが、そのうしろには狼なんかいなかったという、その日に生まれたのである。

(略)文学は作り物である。小説はフィクションである。物語を実話と呼ぶのは、芸術にとっても真実にとっても、侮辱だ。すべての偉大な作家は、偉大な詐欺師だ・・・」。


4. 最後に(3)ですが、これはナボコフが強調することです。
「本を読むとき、なによりも細部に注意して、それを大事にしなくてはならない。
(略)既成の一般論からはじめるようなことがあれば、それは見当ちがいも甚だしく、本の理解がはじまる先に、とんでもなく遠くのほうにそれていってしまうことになる。
例えば、『ボヴァリー夫人』を読むにあたって、この小説はブルジョア階級の告発であるというような先入観をもって読みはじめるぐらい、退屈で、作者にたいしても不公平なことはほかにない。

そして、
「・・芸術作品というものは必ずや一つの新しい世界の創造である・・・・」
ナボコフはまた大学での講義で、―「細部を可愛がるんだよ、caress(抱きしめる)するんだ」とことさらrの音を響かせてよく言った「すばらしい細部を!」―とはある受講生の思い出話です。


イシグロの小説がいかに細部の魅力に溢れているかについては具体的に実例をあげたいのですが、紙数が許しません。

しかし、ナボコフの意見に共感をもっていただけるなら、イシグロが創造したのは独自の「新しい世界」であって、それをオースティンやカフカの世界を「合わせたような」ものだと評することにさほど意味はないという認識に私たちを導くのではないでしょうか。


5. 最後に、ノーベル平和賞NGOの「ICAN核兵器廃絶国際キャンペーン)」に授与されたことについて一言。

これは「被爆者全員への平和賞だ」と事務局長は言います。国連の中満軍縮担当代表の発言も新聞は以下のように伝えます。

―――「痛みを伴う被爆者らの努力が国際社会に認められたのは明らか」と強調。「継続的な努力に感謝するとともに、核兵器なき世界のために支援を続けてほしい」と述べ、平和賞が核軍縮の弾みにあるよう期待した。―――
ちょっと胸が痛くなりました。


この決定には「評価はするが、現実的な効果は期待できない」)といった、冷めた意見が多いようです。
英国エコノミスト誌は電子版論説で、“The Nobel Committee no doubt regards the nuclear-ban treaty as a good deed in a bad world. Whether it will do anything to advance peace is , however, doubtful.”
https://www.economist.com/news/international/21730075-banning-nuclear-weapons-will-not-do-much-advance-cause-peace-years-nobel )

まっとう、かつ現実的な意見で、これが体制かつ大勢かもしれません。

しかし、個人的には、流れをほんの少しでも変えるきっかけになればいいなと願っています。
歴史を変えるのは時として、必ずしも為政者や権力者や利害当事者や大国ではなく、普通の市民の小さな「記憶」と想い、そのつながりが世界的に拡がっていくことであるかもしれません。

その意味で「記憶」はやはり大事だと考える者です。