蓼科の雨の日と、「議院内閣制」再考

1. 猛暑の中、被災地とボランティアの人たちの映像をテレビで見ながらのブログです。
老人はせめてささやかな寄付をするぐらいで、他にどうしようもないのです。


当地茅野市でも10日と12日の夜は「土砂災害特別警報」が出ました。

雨水が傾斜のある道路を勢いよく流れる様を少し心配しながら眺め、もっぱら室内で過ごしました。
こういう時は普段出来ないことをしようと、書棚にあった古いLPレコードを捨てる整理をしました。市役所によれば可燃ごみとして処理可能で、長い間捨てるのを迷っていた最後に残った百枚近い在庫の処分です。


殆どが2度のニューヨーク暮らしで買いそろえたものです(日本で買えない盤で、値段も安かった)。
レコードプレイヤーが田舎家にあるので、雨の日にほぼ終日部屋にこもって、幾つかを聴きながら整理しました。
手入れが悪いせいもあって音自体が劣化しているので、捨てるのが当然なのですが、1枚1枚に思い出があります。
マンハッタンの49丁目に「サム・グーディ(Sam Goody)」という専門店があり、ここで買いました。日本でいえば銀座の「山野楽器」店でしょうか。
銀行の仕事を終えてから店に寄って、好きなレコードを選んで買ってアパートに帰る、幸せな時間でした。店員が親切でよく相談に乗ってくれました。

2回目のNY赴任は、アメリカはちょうど建国200年で祝賀ムードでした。アメリカの歌を特集した記念盤も出ました。
このレコードも久しぶりに聴いてみると、そのころの日々が蘇ってきて、家人は「懐かしいから、残したい」というので、捨てるのを止めました。

ブロードウェイのマーチン・ベック劇場に「ラ・マンチャの男」を二人で観に行ったのもいい思い出で、このレコードも大事です。
アメリカン・ドリームを明るく歌い上げるミュージカル(例えば「アニー」)が主流だった中で、ドン・キホーテを主人公とする,当時としては異色の芝居で、「見果てぬ夢」(The Impossible Dream)を初め音楽も素敵で、歌詞も覚えました。


https://search.yahoo.co.jp/video/search?p=man+of+la+mancha&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa

レコード盤を入れた大きなジャケットは、小さいCDと違ってはるかに魅力があります。
・・・・いろいろ思い出しながら聴いていると、惜しくなりますが、最後に絞りに絞って数十枚を残し、あとは涙をのんで捨てました。
雨の日の一日仕事になりました。
皆様も同じようなことをされたことがあるのではないでしょうか?



2.ところで、
(1)前回のブログで、「議院内閣制」がそもそも有する欠陥とそれを是正しようとする英国での改革について触れた、『議院内閣制―変貌する英国モデル』(中公新書)を紹介しました。
我善坊さんと岡村さんのコメント有難うございます。


我善坊さんの「統治権は議会に在り、内閣は議会の下位に在る」はご指摘の通りで、本書の著者も「議院内閣制は、議会が政府の生殺与奪を握るシステム」と定義しています。
しかし、そのためには議会と政府とに緊張関係が必要です。


(2)本書で著者は、「英国では1970年代以降、採決にあたって党の方針と異なる票の投じ方をする政権党所属議員が増える傾向にある」{同書93頁}。
→これが、議院内閣制の欠陥である、議会と政府の行き過ぎた「融合」を妨げる効果を果たしている。また、権力の自己抑制がそれなりに働いている。
と説明して、


議院内閣制の欠陥を是正する「改革」が、主として議会の与党議員がイニシアティブを取って実現されている事例を具体的に紹介します。例えば、
・議会内に政府の行動を監視する特別委員会の設置、
貴族院による政府のチェック機能の強化
スコットランドウェールズ北アイルランドへの権限移譲
・政治運営に関する様々なルールや慣習の法制化・明示化――「大臣規範」「閣議と内閣委員会の運営」「公務員倫理」「議会の倫理基準」「情報公開」・・・・など政治運営のあらゆる面に及ぶ。これらの文書は、全て政府ないし国立公文書館のウェブサイト上で閲覧できる」(.P.222).・・・・等々。


(3) これに比べて日本の場合、議会(とくに政権与党)が政府をコントロールする機能が果たされていないのではないでしょうか。与党と政府は緊張関係をもつことなく「融合」している。(国民もそれが当たり前だと思っている)。
「国権の最高機関」である議会とそこから選出された内閣との「チェック&バランス」が効いていない。著者の言葉を借りれば「生殺与奪」が実現していない。
英国で見られる「権力者の自己抑制」もない。
  

(4)また、「どの政党もあくまでも社会の「部分」であり、複数の政党が競合して初めて全体をなし、民意が幅広く反映される」(同書P.258)。
しかし、どうも「多数決が民主主義のルール」と皆が思っているようで、
国会での議論はあっても採決された結果からみればすべて政権党の主張通りで、少数の民意(小選挙区という選挙制度のために「少数化」されている面もある)は殆ど反映されない・・・・・。

(5)もちろん、二大政党による政権交代が議院内閣制を支える基盤であり、理想であるのは著者が本書でも言う通りですが、それは日本では当分起こりそうもない。
とすれば、日本の議院内閣制の「欠陥」を補うためにはどうしたらよいのでしょう?


3.また、Masuiさんの「私たちはもっと政治のことを勉強し、日常の話題にすべき」というご意見を紹介したところ、岡村さんからコメントを頂きました。


生粋の祇園街の生まれ・育ちの同氏は、少なくとも昔の京都には、いつも人が集まる場所として名物喫茶店があった、そして「相席OK」の文化があって、知らない者同士も熱っぽく語りあった。

「思想や芸術を自由に語り合える場所として出来たフランソワは左翼の集まり場所となりマスターが特高に捕まった事が有名ですが、フランソワや六曜社(イノダも昔は相席でした)の様な喫茶店には語る場と雰囲気がありました。
この様な場所が若い人達には必要ではないでしょうか?裾野を広げる事も。あの頃は熱病にでもかかって居たのかも知れません。いつの間に話さなくなったんだろうと考えました。」


とても面白く読みました。
この3つの喫茶店、いまも京都に健在ですが、「熱っぽく語り合う場と雰囲気」は、殆ど無くなったのではないでしょうか。
その理由はいろいろあるでしょうが、「一億総中流」という言葉が死語になり、格差社会が進行し、私たちは同じような趣味・思考・人種・教育・階層・・・といった人たち同士でしか話そうとしなくなってしまった、それも理由の1つではないか。
・・・それにしても、岡村さんの言われるように「場所と雰囲気」はやはり大事ですね。


「意見を異にする様々な人たちが集まって、政治を日常の話題にできる場」とそれをオーガナイズする人が生まれればいいなと考えました。京都という街はそういう土壌と文化をいちばん持っているような気がするのですが。