第40回日豪合同セミナーとカウラ事件のこと

1.また1週間前の話ですが,6月1日~2日の週末、「第40回日豪合同セミナー」に参加し、八王子にある大学セミナーハウスに1泊してきました。

f:id:ksen:20190601122029j:plainセミナーハウスは多摩丘陵につくられた広い敷地のあちこちに、セミナー用の部屋、ホール、宿泊用の建物などが散在しています。

梅雨入り前で曇り空ですが、山の上でもあり、湿気もなく快適でした。大学が合宿ゼミなどに活用しているようです。

2.日豪合同セミナーは、「オーストラリア大好きの人たちのための、オーストラリア大好きの人たちによる、オーストラリアについての勉強会」だそうです。

「・・・参加者が、将来、草の根パワーの一つとなって、日豪間の人的、文化的交流促進のため、多少なりとも貢献することができれば素晴らしい、それこそが、セミナー開催の最大の目的と思います」

―――こんな言葉がプログラムに書かれています。

3.私はシドニーに25年昔、3年半暮らしましたが、気候もよく、災害も少なく、寛容で陽気な人たちが多く、街並みや自然も美しく、楽しく過ごしました。

日本はバブル景気が終わった直後でしたが、まだ元気で、豪州にとって大事な貿易相手で、観光客も山のように押し寄せて、日本資本のビルやホテルやゴルフ場があちこちにできて、日本人にとって大いなる魅力ある楽園でした。

ところが、この25年で、豪州は右肩上がりの成長を続け、他方日本は「失われた何十年」が続きました。豪州にとって、当時の日本の存在感はいま中国にとって代わられたのではないかと思います。

それでも、このセミナーに合わせて、駐日大使からのメッセージが寄せられましたが、大使が「・・・・時代がたえず変化する一方で、両国はインド太平洋地域で緊密な友好関係を維持しています」と書いてあるのは間違いないでしょう。

f:id:ksen:20190602074852j:plain4.初日は、「多文化主義」についての基調講演のあと、5つの分科会が2時間。

夕食のあとワイン・パーティさらに有志が集まって深夜まで二次会。翌日は分科会の報告のあと、「ラグビーからみるオーストラリア社会の変貌」と題する講演があり、12時に解散。参加者は一時は200名を超す盛況だったそうですが、昨今は70名前後と低位安定しているそうです。

私は、縁があって分科会の講師を頼まれて、「ラッキー・カントリーの昔と今」と題して参加者と話し合いましたが、なかなか面白かったです。

プログラムの「大好き人間による大好き人間のためのセミナー」といううたい文句から、昔シドニー駐在の外交官の某氏に聞いた「イタきちに豪州馬鹿」という言葉を思い出しました。

今では差別用語かもしれませんが、当時外務省の中ではこういう言葉があって、イタリアと豪州に勤務した外務省の人たちは、おしなべてこの2つの国が大好きになって帰国するそうです。

今回、分科会やその後のパーテイで知り合った「大好き」人間は、私が勤務時に知り合った、金融、鉄鋼、商社などの企業人、つまり私を含めて組織の辞令で転勤してきた人たちとは違う人たちが多かったです。

それぞれが自分(たち)の意志や思いでこの地の暮らしや人々との交流を選んだ人たちが主体でした。

例えば、オーストラリア人と結婚してから関わりが出来た広告会社勤務の男性、交換留学生として留学した若い女性、思い立って夫を説得して夫婦で仕事をやめてシドニーに移住し、5年暮らし、旅行会社で働いたという女性、ほぼ毎年のように休暇を取ってオーストラリアの各地で開催されるマラソンに出場しているというIT会社勤務の男性・・・・などです。

中には、企業経験者もいますが、大企業ではなく、新聞社や小ぶりの会社から派遣されてシドニーで暮らしたという人が多いように感じました。

そういうことも理由としてあるのでしょうか。セミナーは実行委員会が企画運営しますが、全て手作り、ボランティアの活動です。皆が実に楽しそうに働いています。

f:id:ksen:20190601135857j:plain5.そういう人たちの中で、印象に残った某氏の事例を以下に紹介します。

彼は、「コール・ファーマー(農夫)」という名前の東京農業大学OBによる男性合唱団のメンバーです。

この合唱団が1977年から40年間続けて隔年ごとの海外演奏旅行をやっていて、その目的地の中に必ずオーストラリアのカウラがあると話してくれました。

彼は第1回の時はまだ学生で、その後、サラリーマンになっても毎回参加している。

昨年の9月が20回目になる。カウラの人たちはいつも歓待してくれる。団員はホームステイをしてすっかり仲良くなる。昨年10月には第1回演奏旅行の際に団員をお世話した方が、カウラから姉妹で来日した・・・などなど。

これこそ、「草の根の日豪交流」の良い事例だと思い、彼には、「多くの日本人に知ってほしいですね」と話しました。

6.アジア・太平洋戦争中の出来事、カウラ捕虜収容所の脱走事件については、あまり知られていないのではないでしょうか。

(1)戦争中、日本と豪州は敵国で、日本軍は、豪州北部の都市ダーウィンを始め、100回近い空爆を実施し、400人以上の豪州人が死亡した。

シドニー湾には特殊潜航艇が潜入して攻撃、乗員のほか豪州人19人が死亡。この際、豪州側は乗員を正式な海軍葬で弔い、遺骨を交換船で日本に戻した。

(2)カウラはシドニーの西320キロ離れた町で、捕虜収容所が作られ、多数の日本人やイタリア人などの捕虜が収容された。

日本人捕虜が約1100名、うち500名以上が1944年8月5日脱走を試み、結局豪州人4人を含む235人が死亡した。

(3)脱走の原因はよく分かっていない。

豪州側の捕虜の扱いは手厚く、強制労働もなく、警備もゆるく、かなりの自治も認められていた。「生きて虜囚の辱めを受けず」(戦陣訓)を教えられた日本軍人は、偽名を名乗る者も多く、捕虜になったことを家族にも知らせず、日本政府も公表しなかった。

イタリア人の捕虜が故国の家族に自由に手紙を書いたのと大きな違いがあった。

こういう追い詰められた精神状態が、いわば自死の変型として脱走を試みたとする見方が有力であり、「死ぬための脱走だった」という生き残りの兵士の証言もあります。

f:id:ksen:20190608153926j:plain因みに、岡山の高校生がこの悲劇を調査した貴重な・よく出来た9分半の映像があります。現地にも行き、「日本は軍国主義の変わった国で、私たちにはまったく理解できなかった」というオーストラリア人の言葉も聞きます。

https://www.youtube.com/watch?v=nS9GO11ofd4

(4)戦後、カウラの市民は市長が率先して収容所の跡地に墓地を整備し、日本庭園もつくり、桜も植え、毎年、供養をかねて式典を行っている。

日本人会も応分の協力を行っており、私も滞在中、カウラを訪れたことがあります。

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7.そういう、戦争中の悲劇のあった場所と出来事を風化させることなく、カウラの市民がこの墓地を管理し、守り続けていることには頭が下がります。

そして今回初めて知ったのですが、「コール・ファーマー」の人たちが40年も現地訪問を続けていること。昨年9月の訪問の模様をブログに載せている方がいますので、以下に引用させて頂いて終わりと致します。

http://chor-farmer.blogspot.com/ 

「(演奏会が終わって)、

・ホストファミリーが中心となり、BBQランチを開いて下さいました。 キャンベラから演奏会に来て下さった日豪協会の方々も同席されました。 会場の日本庭園は春の訪れを感じる日射しと咲き始めた花々が印象的でした。 昨晩の演奏会やこれまでの交流の思い出、来年日本で行われるラグビーワールドカップなど、話題は尽きませんでした。

・別れの朝、豪州兵墓地では「Abide with me」を、日本人戦没者墓地では「旅愁」を献歌。 私たちは万感の思いを込めて歌いました。」