『皇太子の窓』(エリザベス・グレイ・ヴァイニング著)再び

1.黒幕子さん、8月4日付ブログへのコメントのお礼が遅れました。「神長官守矢資料

館」の情報有難うございました。諏訪地方の古代の歴史に興味を持っておられることに敬意を表します。

また前回は岡村さんから、自分にも良い家庭教師がいた、映画「アラモ」を一緒に観に行き、「子供心にも戦争は駄目だと思わせた映画だった」とのコメントを頂きました。私も懐かしくなってブラザース・フォーが歌う「遥かなるアラモ」をYou tubeで聴きました。

https://search.yahoo.co.jp/video/search;_ylt=A2RA0DrfPF5dD1sAIJuJBtF7?p=%E9%81%A5%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%A2&fr=top_ga1_sa&ei=UTF-8 

f:id:ksen:20190818094711j:plain田舎の夏もそろそろ終盤に入り、我が家は長女夫婦がやって来て、畑の後始末を手伝ってくれました。一緒にやっている、『皇太子の窓』を貸してくれた「友人」夫婦と6人で汗をかき、終わってから友人宅で今年の農作業の終わりをスパークリング・ワインで乾杯しました。

2.ということで、今回も『皇太子の窓』からヴァイニング夫人の思い出を補足します。

(1)まずは、学習院での夫人の同僚だった「友人」の父親について一言ふれると、

夫人の発案である日、皇太子と5人の学友が東京のアメリカン・スクールを訪問し、授業を参観した。

お返しに同校から6人の生徒と4人の先生が学習院を訪問し、安倍能成院長が出迎えて、友人の父親が英語で学校について説明した。ここに同氏が登場します。

(2)翌日ヴァイニング夫人は皇太子に「アメリカン・スクールで何にいちばん興味を惹かれたか?」を質問します。

皇太子は「教室です。子供たちが自由にのびのびとしている」と答え、「なぜ、あんなに自由なんですか?」と先生に尋ねる。

彼女が答えると、「アメリカのやり方と日本のやり方とどちらがいいでしょうか?」とさらに尋ねる。

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(3)「殿下はどちらだとお考えですか?」と問いを返すと、皇太子は笑って「先生にお訊きしているのです」と切り返す。

そこで、「日本の学校にもよい点はたくさんありますが、私はアメリカの方が良いと考えます」と答えて、自由と規律の問題についても話し合った、と夫人は書きます。

(4)この逸話が面白いのは、二人がそれぞれ遠慮せずに自分の意見を述べ、質問もし、その上でさらに話合いを広げていく姿勢です。良い先生だと思うし、しかも、皇太子はまだ中学生で、「決して流ちょうではなかったが」英語でのコミュニケーションです。

3.こんな風に、ヴァイニング夫人は、「自分は英語を教えることを頼まれただけ」と書きながら、実際には皇太子や学友との交流を深く、幅広く育みます。

民主主義についても語り、「科学者、不可知論者をもって自認しておられる殿下」と宗教についても話し合った、と書いています。

皇太子とその姉弟や学友も含めて、休みの間も軽井沢や御用邸で親しく遊び・教え、時に外国人の少年少女も招いて夫人宅でパーティをやり、宝探し、トランプ、モノポリーなどで遊ぶ。

f:id:ksen:20190718082550j:plain1949年12月20日には天皇一家との晩餐会に招かれて、一緒に「きよしこの夜」を英語で歌ったことまであるそうです。

皇室にとって、外国人とのこういう私的な交遊は、当時はおろかいまでも珍しいのではないでしょうか。

4.彼女は学習院での授業も、同じような手法で生徒に臨んだのだろうと思います。

1950年9月に辞任するに当って、

(1)最後の授業で、以下のような別れの挨拶をした、と書きます。

―「私はあなた方に、いつも自分自身でものを考えるように努めてほしいと思うのです。誰が言ったにしろ、聞いたことを全部信じこまないように。・・・調べないで人の意見に賛成しないように。

自分自身で真実を見出すように努めて下さい。ある問題の半面を伝える非常に強い意見を聞いたら、もう一方の意見を聞いて、自分自身はどう思うかを決めるようにして下さい。いまの時代にはあらゆる種類の宣伝が沢山行われています。そのあるものは真実ですが、あるものは真実ではありません。自分自身で真実を見出すことは、世界中の若い人たちが学ばなくてはならない非常に大切なことです」-

(70年経って、こういうアドバイスが(大人に対してだって)一層耳に痛い時代になってしまいましたね)。

(2)たくさんの送別会があったが、彼女はやはり学習院での高校1年の生徒たちが企

画してくれた送別会に頁を割きます。

―――「歌や朗読、劇やスピーチがあり、皇太子は「ヴェニスの商人」のアントーニオのセリフを読んだ。最後に、「蛍の光」を歌った。スコットランド風にみなで手をつなぎ、私は片手に殿下の手、片手に司会した生徒の手をとって、大きな部屋をぐるりとひとまわりした」。

そして「彼らを教えることは歓びだった。・・・私が彼らの年頃だったら、敵国から来た外国人の教師を、彼等が私に示した半分ほどの協力と心の優しさで迎えることができただろうかと疑う」。こういう自らに対する謙虚さがヴァイニング夫人の魅力の1つだなと感じます。

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(3)出発はデンマークの貨物船で、「船客は12名で乗り心地のよい船だった」。皇太子

と義宮が「最後のお別れの言葉を述べに、船までおいで下さった」。

新聞社の写真班が何か日本語で叫んでいる。「もう一度、私たちに握手してくださいと言っているのですよ」と皇太子が40人ほどの写真班の要望を英語で通訳してくれて、「私たちは笑いながら握手の無言劇をもう一度くりかえした・・・」。

(4)そして4年間を振り返っての彼女の感慨です。

――「私が見たものは異常なことどもであった。

私は打ちのめされ、途方にくれた国民が灰の中から起ちあがり、歴史にほとんど前例を見ない方向転換を行って、新しい方向にむかって、決意と力にみちて、新しい生活の第一歩を踏み出す姿を見た。私は戦争の余燼がなおくすぶっている占領下の土壌から、昨日の仇敵同志の間に友情がふしぎにも芽生えてくるのを見た。私は世界の最も秘められた宮廷の、巨大な、鉄鋲(てつびょう)を打った扉が、一人の外国人を責任の重い地位に招じ入れるために、大きくさっと開け放たれるのを見た。

私は,丸々とした小さな少年が沈着な青年に成長するのを見た・・・」。

(5)しかし、この年1950年の6月には朝鮮戦争が始まりました。

根っからの平和主義者であるヴァイニング夫人が、こういう世界の情勢と日本の行く末に深い憂慮を覚えたことも、本書の最後は伝えます。

――「私はささやかながら平和のために寄与しようと思って日本へ来た。ところがやがて、朝鮮は戦火の中に包まれて、火は次にどこへ拡がるか予断をゆるさぬ形勢になった。

・・・日本の新しい民主主義がまさに押しつぶされる危険に遭遇しているのを見た。あれほど立派な好ましいものに思われた和解の精神そのものが、日本をアメリカの軍事的同盟国として、戦争にまきこむかも知れなかった」。

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➜70年後のいま世界はいい方向に向かっているのだろうか、そしてこんな風に平和を願い、憂い、そして発言するアメリカ人が(日本人も)果たしているだろうか、と読み終わりながら考えました。

新聞は、「8月2日にロシアとの中距離核戦力(INF)廃棄条約が失効したばかりのアメリカは、19日に地上発射型の中距離ミサイル実験を行った」と報じていました。