台風が荒れる週末に、蓼科とニューヨークを思い出す。

1.昨夜の東京は台風19号の直撃を受けました。強烈な雨風。家人が率先して、自転車をしっかり縛り付けるなど事前の防備を固めました。

長野の田舎では、台風前に急いで農作物の収穫を終えてしまったでしょう。

つい1週間前、まだ台風の影も見えない穏やかな日々を蓼科で過ごしたことを思い出しました。その頃は、田も実り、畑仕事の人も見ましたが、これらがどうなっているか。被害が少ないとよいのですが。

以下はそんな1週間前の報告です。

2.到着の当日、家の周りを歩いて、早速出迎えてくれたのが鹿でした。

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f:id:ksen:20191002113138j:plainこの時期の眺めが好きなので、滞在中、家人と車で里山まで下りました。

刈り入れを終え、稲束をまとめ、脱穀作業をしている年配の夫婦がいました。

今は刈り入れも脱穀も機械でできるようになって、昔に比べてはるかに楽になった、しかし設備費用がかかり、自然相手で災害の心配もあり、「私は退職した年金生活者だからいいが、農業だけではほとんど赤字だろう」と言っていました。

3.田舎家のあたりは、山荘が散在していますが、定住している人は少なく、盛夏を除けば人も少ない、木々に囲まれた山奥です。

のんびり散歩もします。この時期、人に行き交うことはほとんどありませんが、たまに出会うこともあり、その際はお互いに挨拶するのが何となくマナーになっています。

顔見知りでなければ、挨拶だけで終わります。女性同士は男性より少し積極的で、家人は結構初めての人と立ち話になったりします。

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今回は私も珍しく、年配の女性と話をする機会がありました。坂道を杖を突いて歩いていると、女性が一人反対側から下ってきて、「こんにちは」と挨拶すると、珍しく声を掛けられました。

普通はそのまま通り過ぎるのですが、「知っている方とそっくりなので、思わずお声をかけてしまいました」と言われて、立ち止まって会話が始まりました。

「近くに住んでいてよくお会いしていたが、今年の夏前に急逝されました。京都大学の先生でとても良い方で、寂しく思っていたところだったので」と言われて、

「私はそんなインテリではありませんよ」と苦笑いをしました。

遠くから見て、痩せた背格好がたまたま似ていたのでしょう。

 71歳だそうですが、知らない女性と話をするのは珍しい経験でした。

このあたりもとうぜん高齢化が進んでいます。互いに当地だけの知り合いで、主に春から夏の短い間だけご近所づきあいをして、「また来年お会いしましょう」と言って別れて、翌年になったらもう姿を見せないという方もおられます。死去されたか、移動が無理になったか、事情は様々でしょうが、前触れなく突然会わなくなる場合が多く、この女性が「寂しく思っていた」と言う気持ちはよく分かります。

1年ぶりに今年もまたと思っていたら、もう会えない・・・そんな淡い・夏の間だけの交流で、立ち入って深く付き合った訳でもない、それでも去年が最後だったのだと、高原でともに過ごした思い出の幾つかが懐かしく蘇るものです。

4.この立ち話のことは家人にも報告しました。

(1)私たちもいつそんな状態になるか分からない、まずは運転がいつまでできるかだなと思いながら、今回も中央高速を交代で運転しました。

行きかえりともに好天で、渋滞もなく、車も比較的少なく、助かりました。

帰路ではまた富士山がよく見えました。そういう日和と時間帯をできるだけ選んで走るということもあります。雨の日や夜は可能な限り避けます。

追い越し車線には殆ど出ず、制限速度ちょっとで走ります。

(2)今回は、行きがけの下り路線で、珍しい経験をしました。

談合坂のレストエリアで休憩して、再び高速に乗って小渕沢のインターチェンジで下りて一般道に入るまでの約90キロを私が運転しましたが、この間、前と後ろに1台ずつ、ほぼ同じ速度で走る車があって、道中ずっと一緒でした。

前は中型のトラック、後ろは白いトヨタプリウスで、車間距離もそこそこ取って、私の車を挟んで3台が、1時間以上の間、ほぼ時速80キロでずっと走りました。仲間がいる気分がなかなかいいものす。

(3)大昔アメリカのハイウェイをよくこんな風に運転したことを思い出しました。

車線が4つも5つもあるからということもあるでしょう。

日本だったら、そもそも高速道路で制限速度で走る車が少ないし、高速でも普通2車線ですから走行車線を車間距離をあけて走っていると間に別の車が入ってきて、同じ3台が並んで走るという状況は難しい。

f:id:ksen:20091108060038j:plain(4)もう1つ、ニューヨークの近辺にある「パークウェイ」の存在です。

これも交差点のない・上下分離されたハイウェイですが、特徴的なのは、バスやトラックなどの商用車は走行できない、乗用車のみの道路です。

その代わり車線は2つか3つしかありませんが、眺めのよい郊外や川沿いや緑の中を走る場合が多い。

そういうパークウェイで、前と後ろに制限速度でずっと同じように走る車がいる、追い抜きもしない、そんなアメリカでのドライブ経験を懐かしく思い出しました。

 それと、当時から「オート・クルージング」と呼ばれる、速度を一定にセットしておける装置がついている車が多かったことも1つの理由かもしれません。

(5)もう何十年以上も昔の話ですから、いまは運転事情も変わっているでしょう。

道路も老朽化しているのではないか。昔のアメリカのハイウェイは素晴らしかったけど。

住まいのすぐ近くに小川が流れていて、川に沿った緑の中を高速道路「ブロンクス・リバー・パークウェイ」が走っていました。

あれから35年、ニューヨークに行くことももうないでしょう。

(6)先週、東京では5年ぶりにニューヨークから一時帰国したもと同じ職場の女性に会いました。

派遣の女子行員としてニューヨーク支店に勤務し、日本に帰ってから銀行をやめてコロンビア大学の大学院に留学し、そのままニューヨークに住み着いた68歳になる女性です。

f:id:ksen:20191008072127j:plain東北大震災の後日本国籍をとり、今年2月日本で死去したドナルド・キーンさんは、コロンビア大で長く日本の古典文学を教えました。

彼女もかってゼミ生だったので、9月に同大学ドナルド・キーン日本文化センターで開かれた「偲ぶ会」に出たそうで、その話を聞きました。

キーン先生に学び、いまアメリカ各地の大学で教えている研究者が大勢集まり、それぞれが故人の思い出を語った由。日本文学を愛するアメリカ人研究者が彼の遺志を継いで活動しているという話を、嬉しく聞きました。

約200人が集まり、映像と好きだった音楽が流れ、それぞれが思い出を語り(涙を流している教え子もいた)、堅苦しい式次第もVIPの登場もなく、彼を本当に慕った人たちによる、いい会だったそうです。

「好きなオペラと言えば、マリア・カラス歌う「清らかな女神よCasta Diva」(『ノルマ』)も当然流れたでしょうね?」と訊いたら、「もちろん」という答えでした。

1952年ロンドンのコベント・ガーデンで実際にこの舞台を見ていて、その感激を熱っぽく語っています(2013年TBS放映の小沢征爾との対談で)。