ブログへの皆様のコメントに考えたこと

1. この季節、東大駒場キャンパスへの散歩が気持ちよいです。朝夕はだいぶ冷えてき

て、銀杏の並木も色づいてきました。東邦大学病院の呼吸器内科の定期健診に行ったところ、先生が「今年はインフルエンザが早めに流行っている、ラグビーで人が集まったこともあると思う。来年はオリンピックでいろいろな病気感染の恐れもあるのではないか」と言っていました。

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f:id:ksen:20191110135937j:plain2. さて今回は、拙いブログにいろいろコメントをいただいているので、最近のを読み

返しながら、感謝も込めて、これらをご報告したいと思います。

 まず最初に、前回のブログに、京都祇園の町内会会長をしている岡村さんから、「ラグビーでは日本のおもてなしが好評だったようだが、(他方でついに)祇園町のあちこちでは、「私道での撮影禁止」の立て札が立ちました」というコメントです。

 祇園に観光客があふれて、舞妓さんを追いかけて写真を撮りまくったり、家の中にまで入ってくる、あまりのことに自衛策をとったということでしょう。

「道路保全費として町内会費の一部を積み立てていますが、祇園町地域は私道が90%だから出来たのでしょう。“許可のない撮影は1万円を申し受けます”の文言は取り消されました」とあります。

 90%が私道とは知りませんでした。自分たちできれいにしようという動きになるのでしょう。花見小路も私道なのかな。ここは随分前から電信柱がなく、地中化されてきれいな歩道ですが、その費用もこの道路保全費を当てたのかもしれません。地域住民の自治の力でしょうか。京都にはそういう町衆の文化と歴史があるのですね。

 当初、「1万円申し受けます」のパネルを格子に張り出したとたん、警察にまで脅迫まがいの電話があったそうで、問題は外国人の観光客だけではないようです。私たちもマナーを守ることが大事ですね。

「この地域には公衆便所はないので、路地や辰巳稲荷の鳥居の側でも用を足す」とも書いておられます。「お茶屋からの、祇園を観光地にしないで!という悲鳴を感じる」ともあり、悩みは深いようです。

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f:id:ksen:20190204143730j:plain3. 続いて、前々回は友人が書いた『2038滅びに至る門』を紹介したブログです。2038

年に核戦争が起こり、人間は滅亡に向かうというデストピアの近未来を描いた小説です。

 なぜ、この年を「滅びに至る年」として著者が選んだのか、たまたまなのか、私には分かりません。今度会ったときに訊いてみたいと思っています。

というのも、藤野さんから、「2,3日前の京都新聞コラム欄に尾池和夫という地震学者(元京大総長)が、2038年12月に南海トラフ地震が発生すると断言していました。「2038年」が妙に符合します」という面白いコメントを頂きました。

 それにしても、「断言する」とは怖い話ですねと返事をしたところ、下前さんから「断言しても責任を取らなくても良いお年だったと思います」と横から声あり、これには思わず笑ってしまい、「なるほど。2038年には現場にはいない・・・・。もちろんそういう私もあの世から「責任を取れ」と言うわけにもいきませんね」とお返ししました。

4. この小説には、核戦争の危険が迫る中で、「なぜ殺し合うのか?」について語りあ

う場面があり、「ヒトは特異な共食い動物」という指摘がありました。ここを読んで、梅原猛氏の「同類の大量殺害をする動物は人間だけ、ゴリラの方がはるかに平和な動物」という文章を思い出して、紹介しました。

 中島さんから、「最近の研究によると、チンパンジーは、集団で他の集団を殺戮することが観察されているそうです。(人間は)集団で仲間以外を襲撃する可能性のある類人猿の一種としての自己認識と、自省が必要と思います」とあり、京都大学のサイトを教えて頂き、たいへん勉強になりました。

サイトは、http://www.kyoto-u.ac.jp/.../research.../2014/140919_3.html です。

 とすると、同類の大量殺害をするのは人間のほか類人猿だけ。つまり動物は進化するほど残虐になり、自らを滅ぼす宿命をもつ存在になるのか、とすれば人間が真っ先に「滅びに至る」動物ではないのか、そんなことを考えました。

 因みに本書には、主要登場人物の一人が以下の仮説を述べる場面があります。

(1)ヒトには、殺りくの遺伝子と同時に、共存の遺伝子もあるはず。

(2)なぜ前者が優勢になるのか?殺りく派は兵器を持っているから共存派は負けてしま

う。宗教は殺りく派の手先になり、AIも道具になる。

(因みに、著書は宗教が人間社会に与える負の影響についてきわめて批判的です。「無神論者による無神論者革命」を起こそうという発言まで出てきます)

(3)しかし、ヒトの脳にはまだ使われていないところが多いと言われる。その中には共存をはかるものがあるかもしれないし、これまで使っている脳も使い方によっては共存の方向に変えることができるかもしれない。

(4)と述べて、「私は、殺りくに寄与している宗教やAIを脳から排除して、それをやってみたいのです」と希望の未来を語ります。

 ヒトの脳や遺伝子を変えることで、戦争をしない人間に進化できるか・・・・私には分かりませんが、気持ちはよく理解できます。

f:id:ksen:20190917104941j:plain5. 最後になりましたが、前々回のブログはたまたま読書週間中でもあったので、「本を

読む」楽しさについても触れました。小中学生は意外に読むが、読まないのは中高年という調査結果も報告しました。

 Masuiさんから、「私の孫たちは小中学生で、よく本を読みます。若い子供たちはよく本を読むという点ではあまり違和感がありません。しかし、電車の中で本を読んでいる人とスマホを手にしている人とを比べると、圧倒的に前者は少ないです。本を読んでいる人を見かけると微笑ましくなります。小学生の本を読む貴兄のスナップは最高です。」というコメントを頂きました。

よいお孫さんたちのようで羨ましいです。

 写真は、たまたま渋谷の歩道を夢中になって本を読みながら歩いている小学生の後ろ姿があまりに珍しいので撮ったものです。「危ないな」と危惧しつつも、私にも経験があり、やめられない少年の気持ちがよく分かります。

 大江健三郎の以下のような文章を思い出しました。少し長いですが、引用します。

本書は1988年ですから、ひと昔前、いまはもう見ることも殆どない情景ですが、大江のコメントに深く共感します。

「電車のなかで一冊の文庫本を熱中して読んでいた若者が一瞬窓から外の風景を見て、魂をうばわれたように放心している。

 僕はそうした様子を見るのが好きだ。

 かれは、または彼女は、いま風景を見ているのはちがいないが、それまでの読書によって洗われた眼・感受性、活気づけられ勢いをあたえられた心の動きで、風景を見ているのである。

 それまで読んでいた本の「異化」する力・文体が、窓の外も風景にまで、かれの躰のうちから滲み出しているのである」

(『新しい文学のために』岩波新書

6.以上、主にフェイスブックから頂く皆様のコメントや情報提供がたいへん勉強にな

っており、あらためて感謝をお伝えしたいと思っ