薔薇が咲いた。京都「ミンナソラノシタ」の話。

1.小さな庭に、昨年末に神代植物公園で買った薔薇の苗木が花をつけました。「プリンセス・ミチコ」です。神代植物公園もいま盛りでしょうが、閉鎖中です。

 前回は「タイム誌選出100年の100人」の話をしました。今回も続けるつもりでしたが、頂いたコメント優先で、タイム誌の続きは先送りです。

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2. 前回、100人の中に緒方貞子さんとミセス・タケモト・ミンクという日系アメリカ人3世を紹介しました。T・ミンクは戦争中にも拘わらず高校を総代で卒業し、アジア系女性で初の下院議員になりました。長年女性差別・人種差別と闘ってきました。

 飯島さんから、日系アメリカ人と言えば、戦争の最中にブロードウェイのミュージカルの主演をした2世の女性がいたと教えてもらいました。ソノ・オオサトさんの存在を私は知りませんでしたが、戦争中苦労したようです。「苗字を変えろ」という圧力もあったが屈せず、日本名を通した。

 何となく、同志社創始者新島襄の逸話を思い出しました。

 彼は、幕末、20歳のときに国禁を犯してアメリカに行き、親切な慈善家の援助を受けて10年滞在し、当時としては最高の教育を受けました。名門アマースト大学は、彼を卒業生の誇りとして、その肖像画をチャペルの祭壇右横の最高の場所に、同大卒業生で唯一の大統領クーリッジのと一緒に並べました。

 いまも飾ってあるかどうか知りませんが、私が訪れたのは10年以上昔です。案内してくれた某教授が、「太平洋戦争中、日本人の肖像画は取り外せ」という圧力があったが、大学は頑として圧力に負けず、飾り通した」という出来事を話してくれました。

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 3. 岡村さんは若い頃の海外放浪で出会った女性の話を書いてくださいました。  

 「ロスアンゼルスやハワイで日系アメリカ人の女性に親切にされたこと。台湾では、日本人観光客がレストランで子供が食べ残しているのを見て「親はどうして叱らないのだ」と言われた話。ベトナムでは、チョロン地区の市場に、枯葉剤の後遺症でしょう異常に大きな頭をした赤ん坊を抱き抱えた女性がたたずんで居た姿が未だに頭に浮かぶ。

 この頃考えるのですが、議員の比率がとても大事だと。差別と戦い続けた、敵国でミュージカルに主演した、戦争の為に不遇な身体を持つ子供を育て続けなければならない人生。苦労の無い人生など誰にも無いでしょうけど、女性の考え方と力が必要だと思うようになったのです」。

―――様々な国を旅して、そこで出会った女性との出会いが、その人の考え方に大きく影響するのだなと、読みながら感じました。

 女性の方が、差別や子育てなどの苦労を通して、生活の苦しみを身を持って感じることが多いと言えるのではないか、そういう経験がリーダーになったときに、「共感力」として生きてくるのではないでしょうか。

 3月18日のメルケル首相のスピーチは2か月経ってもいまだに世界の話題になりますが、「共感力」を評価する声が多いです。若い時代を東独で過ごして、自由を抑圧されることがどんなに辛いことか自分がいちばん知っているとして、基本的人権を制限する痛みと例外性を強調しました。そういう人間が言うのだから理解してほしいという訴えが多くの人の心を打ちました。生活に根差した女性だからこそ出てくるのかなと思いました。

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4. 最後になりますが、京都検定1級の藤野さんから教えて頂いて,非営利団体「ミンナソラノシタ」(「ミナソラ」と略)代表林リエさんが登場する映像を見ましたのでその報告です。京都時代、藤野さんに誘われてよくお会いしました。

 ソーシャルビジネスに取り組むボーダレス・ジャパンという会社が、社会貢献活動の団体を随時、ネットで紹介していて、5月11日(月)は林リエさんでした。最近すっかり定着した「Zoom」を使っての催しでした。

(1) 「ミナソラ」については過去のブログで何度も取り上げていますが、福島の幼稚園に通う子供たちを支援する活動を原発事故の直後から始めています。

(2) もともとは、東北大震災時に関西の自治体が東北支援の役割分担を決めて、京都が福島県担当になり、支援センターが出来た、その責任者を藤野さんが務めたことから支援の輪が始まりました。

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(3)  京都で避難生活を続ける母親たちの支援や、現地の幼稚園での支援など続けていますが、最近の目玉は「幼稚園留学」と銘打って、福島の子ども達を3週間京都に招いて京都の幼稚園で自由に外で遊んでもらうという活動です。

 福島ではいまも様々な問題があります。ほんの少数の子ども達でも、一時期京都に来て交流し、外で遊べることがどれだけ楽しい思い出か、「感謝している」と涙ながらに語る,映像に参加したお母さんもおられました。

(4)「ミナソラ」の活動が特徴的なのは、幼稚園に通う同年令の子ども達を持つ若い母親の間で、自然発生的に始まったボランティア活動であること、苦労はいまも多い、しかしめげずに明るく、仕事や子育ての忙しい日々を縫って手作りで、自分たちが出来ることを地道に継続していること、などでしょうか。「継続は力なり」です。

(5) 私も5年前になりますが、藤野さんに誘われて、林さんと一緒に福島県のある幼稚園を訪れたことがあります。その時は、外で遊べない子供たちのために室内用の砂場の砂を寄贈するという目的でした。子育てに悩むお母さんたちの悩みを聞く機会もありました。

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5. 当日の「Zoom」での林さんの発言で印象に残ったことです。

(1)原発のことも、福島のことも何も知らなかった私たち「ママ友」がこの活動を始めたのは、皆が母親だったことが大きいと思う。何よりも子供たちの未来を全力で守る社会であって欲しいという願いが、私たちの根底にある。

(2)周りの支援もたくさんあったが、いろいろと批判も頂いた。「当事者でもないのに、なんでそんなに熱心にやるのか」「暇な余裕のある人のやることではないか」

(「そう言われて、3人の子育てをしながら働くことも再開した」と答えていました。「元気人」ですね。)

(3)皆さんへの願いは、いまの福島を知ってほしいということ。私たちや子どもたちもこの活動を通して福島の母親や子供たちと繋がり、友達が増えた。それが嬉しい。

――やはり岡村さんの言う通り、この国は生活に根差した「女性の考え方と力がもっと必要だ」と共感しました。逆境にある子どもたちも生きやすい、そんな未来であってほしいです。