- 東京のソメイヨシノは散りはじめました。「散る桜 残る桜も散る桜」。
1週間前は満開で、3月27日、京都の客人を赤坂に迎え、私も陪席しました。
昨年8月末に下前講師による「床屋談義」と題する話があり、好評だったのでこの日に「続・床屋談義」が実施されたものです。
今回は、下前講師は「京言葉」について。そのあと、祇園のお茶屋「かとう」の大女将加藤裕子さんによる「モルガンお雪のこと」という、豪華二本立て公演でした。
「イノダ」八重洲店からの出張による珈琲付きの企画です。
2.まず、「京言葉」について。
(1)「考えときます」と言われたら、「脈がない」という断りの言葉で、それを旗幟鮮明に言わないのが真骨頂、そこから誤解も生まれる・・・・という事例をいろいろ教えて頂きました。
誤解は昔もいまもあるようで、100年以上昔の有名な、夏目漱石と祇園のお茶屋「大友(だいとも)」の女将・お多佳さんとの「事件」の話もされました。
約束をすっぽかされたと怒る漱石の態度が、「京言葉を解せぬ、東男の野暮」として当時話題になったそうです。
1915年の3月上洛した漱石はお茶屋でお多佳さんに会い、北野天満宮の梅見に誘う。
「暖かかったら」と返事をした彼女に当日電話したところ、「遠方へ行って晩でなければ帰らない」と言われて憤慨する。そんな出来事です。
(2)その漱石は、こんな句も詠みました。
――「木屋町に宿をとりて 川向こうのお多佳さんに」にと前書きがあって
春の川を隔てて 男女(おとこおみな)かな」
(3) 彼女は、文芸芸妓として知られ、本もよく読み、歌や俳句をはじめ文章も書き、書画にも優れ、「大友」には谷崎純一郎など文人が多く集まりました。いま、白川沿いに吉井勇の「かにかくに 祇園は恋し 寝るときも 枕の下を 水の流る」の歌碑が立っている、そのあたりにかつて「大友」があり、戦争中の強制疎開で取り壊されたそうです。
これらは、当日やはり京都から来られた飯島さんにお借りした、『祇園の女、文芸芸妓磯田多佳』(杉田博明、中公文文庫)から知りました。
- 「京言葉」は女性の口から出ると、何とも柔らかくていいものだと、加藤裕子さんの話を聞きながら思いました。
「人前でお話しするのは、気恥ずかしおす―――」とか、
「おっ師匠さんのいわはることは、ちゃんと聞くのどすえ」と言った言い回しです。
(1)モルガンお雪は、文芸芸妓お多佳さんの2歳下、ほぼ同世代です。
加藤さん&下前さんの大叔母にあたります。
祇園巽橋の近くにあるお茶屋「かとう」は明治から続く老舗だそうで、お雪さんの姉が始めました。
(2)お雪さんは1895年14歳で、ここから芸妓になります。
そして20歳のとき、古美術収集と観光で日本に来たジョージ・デニソン・モルガン(あの大財閥J.P.モルガンの甥)に見初められて結婚(「日本のシンデレラ」と大ニュースになった)。
(3) 短いニューヨーク生活のあとパリに移るが、数年で夫が客死(彼44歳ユキ34歳)、 南仏のニースに住むが、戦争の危険が高まり、1938年57歳のときに30数年ぶりに帰国した。
戦争中、戦後の苦難の時期にずっと京都に暮らし、25年の日本暮らしを経て1963年82歳でテレジア・ユキ・モルガンとして死去。生前カトリック衣笠教会の聖堂を寄進した。
- 以下は主に、下前さんに昔お借りした『モルガンお雪、愛に生き信に死す』(小坂井澄、講談社1975年)からの知識です。
(1) 海外では、短いながらも夫とのNYやパリでの華やかな日々、そしてその後の南仏での穏やかな暮らしがあった。家庭教師と合奏でチェロを弾く写真も残っています。
(2) そんな彼女にとって、30年ぶりの日本・日本人はどう写ったか?帰国直後、吉屋信子がインタビューし、雑誌「主婦の友」に「モルガンお雪さんと語る」と題して掲載した文章によると、おぼつかない日本語でこんな応答をしたそうである
「フランス、ヒトノコト、カマイマセン。ニホン、アマリ、ヒトノコト、サワギスギマス」。
帰国しても、日本語もおぼつかなく、すぐにフランス語が出てしまう日々が続いた。しかし、京都で,親族やフランス人の神父と親しく付き合い、穏やかに亡くなったという。まだ幼かった「かとう」の大女将は、優しかった大叔母を覚えていると言います。
5.講師の二人から、久しぶりに京都の話を聞きました。
飯島さんからは、『祇園の女』を借りました。
祇園町会長の岡村さんは、帰洛後フェイスブックに舞妓さんの話を書いてくれました。16歳の「仕込みさん」(こういう言葉も初めて知りました)が、「小さくてもいっぱしの挨拶をするのです」。人に接するときの作法や言葉は京都の花街にはまだ残っているのだろうな、「よろしおすな」と思いました。
久しぶりに京都の雰囲気に溢れた贅沢な時間でした。