澤木さん翻訳のエリコ・ヴェリッシモ『大使閣下』

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1.80年も昔の、この国の悲惨な戦争の記憶と体験を持つ老人は、テレビの映像を通して見るウクライナの状況に心を痛めながら、今日もブログだけは続けます。

 

2.今回は,前回紹介した、澤木忠男さんが翻訳した、エリコ・ヴェリッシモ『大使閣下』(文芸社)の話を続けます。

 渋谷の東急本店内にある「丸善ジュンク堂」に寄ったところ、本書が6冊も「スペイン・ポルトガル文学」の棚に置かれているのに驚きました。

  日本では有名作家ではないし、訳者もいわば素人で、初めての翻訳です。

 それが本屋に並ぶのは立派です。

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3.しかも、1965年に発表されたブラジルの作家による小説が、60年近く経って日本の読者の目に触れるというのも珍しい話ではないでしょうか。

 

(1) それには澤木さんの長年の、「いつか皆に読んでほしい」という夢があり、80歳を超えて実現したことになります。

(2) 彼によれば、「当時は3分の1も理解できていなかったが、それでも夢中になって読んだ」。

 その後、ブラジル、メキシコ、ぺルー、スペイン勤務を経験して、「フィクションと思っていた荒唐無稽な物語が、中南米の現実をベースにしていることに気付いた。初読から翻訳までの長い年月は、その意味で決して無駄ではなかった」と書いています。

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  1. 物語は、

(1)カリブ海にある架空の島国サクラメント共和国からワシントンに赴任した駐米大使ガブリエル・エリオドロが主人公。

(2)同国は、人口2百万の小さな国だが、「すべての富を支配しているのは、30の富豪家族と米国巨大企業2社。大多数の国民は物言わぬ民。その実態は悲惨そのものだ。病、飢え、高い死亡率、貧困・・・」。

(3)そこでは、たびたび革命と反革命が起き、そのたびに悲劇が繰り返され、革命を成功させた英雄は国民に当初は「夢と理想」を語る。しかし彼もまた独裁者になり、同じような腐敗や庵圧が繰り返される・・・。

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  1. このように書くと、暗い小説のように見えますが、とても面白いし、読みやすい訳です。

(1) まずは物語の展開の面白さ。「作者はこの作品を打ち上げ花火にたとえ、最初はコメディタッチでゆっくりと昇りはじめ、最後は大爆発で終わるとしている」。

 

(2) それと、主人公エリオドロ大使の魅力です。革命で独裁者を倒し、自らも独裁者になってしまった現大統領の盟友。

  ・学問も教養もない、売春婦の子供で父親も分からない、たいていの社会道徳は無         視し、好色な人間。

  ・しかし、生命力にあふれ、自らの無知を恥じることなく、大使館の職員にも女性にも好かれる。

 ・一見したところ陽気で、実はひとり内省する面もある。

 ・ある種の人生哲学の持ち主である。戦いのためには死をも厭わない潔さがある。

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・「生を大切にする者は、死を怖れない。生と死は一心同体だ」と、リベラルな理想家で、母国の現状にいかに行動するか悩む、二等書記官のパブロに語る。

 そして、「どうだ、カッコいいだろう」と珍しく照れながら、「大いに生を愛する者は、死もまた同様に愛すだよ」と続ける。

・パブロは、この大使閣下を、「破廉恥、粗野、身勝手で短気な男と思ってはいるが、どうしても憎めなかった」。

 

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(3) もうひとつ、澤木さんに言わせると、「大使をめぐる濡れ場描写は,官能小説も及ばないラテンならではの迫力があり、この物語のアクセントにもなっている」。

 この点は、いささか品のない描写に,私はかなり閉口し、飛ばして読みました。ただ「楽しく訳した」とメールしてくれた澤木さんの好奇心と意欲には感心しました。

 また、今なら許されない「差別表現」も散見されます。しかし訳者は「底流には作者の差別批判がある」という見解で、彼の本書への愛着が伝わって、気持ち良いです。

 

6. 日本の小説とはまるで異なる、分厚いステーキ肉を赤ワインと一緒にたっぷり賞味したような読後感でした。