「ありがとう大江健三郎さん」

  1. 今年の東京の桜は、わりと長持ちしているようです。海棠(かいどう)も花桃も咲き始めました。

  1. (1)小雨が降る先週、新宿の紀伊国屋書店に出掛けました。

行きつけだった渋谷の丸善ジュンク堂が閉店になったので、やむなく新宿まで足を伸ばしたのです。

(2)以前のブログで、イタリア映画「丘の上の本屋さん」を紹介しました。

映画では、古本屋の老店主が、貧しい移民の少年に次々に本を貸して読ませます。

紀伊国屋には、彼が少年のために選んだ書物をすべて並べた、「丘の上の本屋さん」コーナーが出来ていました。

同じフロアには、「ありがとう大江健三郎さん」と題した、やはり特別コーナーが設けられていました。 

  1. 大江健三郎氏は「老衰のた」3月3日に88歳で死去、14日の新聞に報道されました。

(1)1935年四国愛媛の山間の村で生まれ、東大フランス文学科在学中に、東京大学新聞に載った「奇妙な仕事」が注目され、在学中に雑誌「文学界」に掲載された、「死者の奢り」が芥川賞候補に、「飼育」で同賞を受賞しました。

 

(2)1994年にはノーベル文学賞を受賞、受賞直後に文化勲章を打診された際には、「戦後民主主義者の僕には国家の勲章は似合わない」と辞退しました。

  1. 英国エコノミスト誌3月18日号は訃報を載せ、「ノーベル賞受賞作家兼政治活動家」と紹介しました。

記事は「父と子」と題して、脳の障害を持って生まれた長男光さんについて多くを割きます。

(1)まずは田舎出の大学生が、23歳にして突如としてスターになった。

(2)その彼が5年後、若くして結婚して生まれた最初の子供の不幸は、彼に大きな苦悩を与え、「すっかりうちのされていた」。

(3)「どこか別の宇宙に逃げたい」という思いが何故か彼を広島に導き、核兵器に反対する会議に参加した。

(4)そこで、「真に広島的な人間たる特質をそなえた人々」に出会い、感銘を受け、生まれた子供と共生する決意を固め、「ヒロシマ・ノート」という優れた記録を書いた。

(5)そして、その後の小説で光さんとの共生を取り上げ、核廃絶を始め、社会的弱者へのまなざしを一貫して持ち続けた。

5.エコノミスト誌の記事は、ある日、記者が同氏の自宅を訪問したことに触れます。

 

・地味な落ち着いた住まいの居間に招かれると、そこは、彼の仕事場兼光さんの居場所でもある。

・大江自身は、膝の上の大きな用紙に手書きで原稿を書き、光さんは近くでCD から流れる音楽に耳を傾けている。

・大江は執筆しながらも常に息子に気を配り、必要ならいつでも助ける構えでいる。お互いに意識しあい、父親は「二人は同じ方向を見つめている」と語る。

・そして、そのような共生から生まれる「希望」を個人的な世界から普遍的なものへと拡げていった作品への評価が、1994年のノーベル賞受賞につながった。

6.この日私は、紀伊国屋書店で並んでいる中から、2014年に出た『大江健三郎自選短編』を買い、まずはごく初期の作品を60年ぶりに再読しました。

私は氏の4歳年下で、東大新聞に載った「奇妙な仕事」が話題になったときは浪人生でした。大学生となり、これらの短編を読みふけりました。

いま読み返して、若かったあの時代の空気を吸っているような懐かしさを感じました。

1963年の光さん誕生以来、「すべての大江作品は長男の存在を抜きに語ることはできないだろう」と言われます。それらの作品の再読にも挑戦するつもりですが、私の知力と体力(視力を含め)が持続するかどうか、不安も感じています。