1.先週の日曜日は、東大駒場祭の最終日でした。
(1)キャンパスは大勢の人出でした。
銀杏並木の下のテントで、学生が演奏と歌を披露していました。
(2)翌日のキャンパスは静かで、前日の賑わいはどこに行ったか。
「あれだけのテントや展示物を、昨日のうちに学生たちが片づけたのかしら」と妻が感心していました。
- 私の方は、ぼちぼち外出し、先週は電車とバスに乗って出かけました。六本木の国際文化会館。馴染みの場所なので安心感があります。
(1)3人で集まり、昼食のあとロビーで3時間もお喋りです。
平安時代文学が専門の田中元名大教授と、中高の友人佐藤君と私の3人です。
(2)かつて佐藤君に誘われて新宿の朝日カルチャーで、先生の「古今集」の講義を
聴きました。
通説を批判し、独自の解釈を披露するのが面白く、講義の後も先生と昼食をともにしました。
(3)交流は先生が朝日カルチャー講師を辞めたあとも続き、今回久しぶりの再会となり
ました。
話題は「源氏物語」の巻「手習」にある浮舟の最後の歌をどう解釈するかについてです。
3.源氏物語の最後は、
(1) 宇治に住む皇族の血を引く三人の姉妹の物語で、末娘の浮舟と、匂宮(今上帝の第三皇子)と薫(光源氏の子として育つ)という二人の貴公子との関わりが描かれます。
(2)二人の男性に言い寄られた浮舟が煩悶のあげく宇治川に身を投げようとするが果たせず、出家します。そのことを知った薫が使いを寄越し、会いたいと告げる。しかし浮舟は会おうとせず、使いが空しく帰ってきたことを知った薫の思いで、物語は終わる。
「長編源氏物語の結末としては、いささか物足りない結末である」と評されます。
(3)この評に田中先生は異論を唱えます。
「浮舟は断固として薫に会おうとせず、出家の意思を変えない。
それは、彼女の歌、「尼衣かはれる身にやありし世の、かたみに袖をかけてしのばん」
に示されている」。
(4)この歌を、通説は「ありし世」の思い出に揺れる浮舟の心を写す歌と詠みます。
ところが田中先生は、
「歌は還俗(げんぞく)を拒否する彼女の強い意志を詠う。
浮舟は以後、現世を捨てて仏の世界に生きようとする。
物語も彼女の決意で終わる。「結末が物足りない」という意見があるが、物語は、現世を離れて仏とともに生きる浮舟で終わり、そこで終わらざるを得ない。見事な結末と思う」。
- こんな田中先生の説を佐藤君と二人で聞きました。
国際文化会館の紅葉する庭を眺めながら、浮世離れした会話で盛り上がり、良い気分転換になりました。