mytopgunさん、我善坊さん、今年もよろしくお願いいたします。

国学」を学びたいなんて新年早々格好をつけてしまいましたね。


いつの日になるやら・・・。取りあえず、小林秀雄の『本居宣長』の新潮文庫版を通勤のかばんに入れたところです。


我善坊さんのご質問のとおり「もののあわれ」については記念館の説明です。ここに注目されたのはさすがですね。

他方で「古事記は現存最古の「歴史書」」というのも記念館の説明で、この点もちょっと記憶に残りました。やはり「神話」ではないかと私なら思うのですが・・・


8日(月)に2週間ぶりに京都に戻りました。
好天で車窓から富士山がよく見えました。

休み中に塩野さんのシリーズ最終巻『ローマ世界の終焉』を読みました。
品川駅内の小さな本屋でさえ、写真のような大量の平積みです。

出版社の力の入れようもすごいですね。
7日(日)の日経には山内昌之東大教授の書評が載っていました。


やはり、ローマは興隆より滅亡のほうが面白いというのが個人的な感想です。

とくに最終巻よりもその前の13巻・14巻が興味深かったです。


塩野さんが提示する、一神教(ここではキリスト教)対ローマ古来の世界観・価値観(たとえば、寛容)というテーマが15巻にも繰り返されていて、前にも書きましたが、キリスト教徒にローマ史が書けるかという女史の気負いがほほえましいです。


一神教を信ずる人々にしばしば見られる現象だが、彼らが最も憎悪するのは、異教徒ではなく異端の徒なのである」というあたり、現下のイラクの悲劇を思いおこして、塩野さんらしいコメントだなあとあらためて感じます。


ちなみに、この文章のあとはこう続きます。

・・・なぜなら、異教徒は、いまだキリスト教の教えに目覚めていない人であり、それゆえに目覚めさせる可能性をもつ人だが、異端の徒となると、キリストの教えに目覚めたのにそれを誤解し、しかもそれを誤解とは認めずに信じきっている人となり、信じて疑わない以上はキリストの真の教えに目覚めさせる可能性は少ない、ということになるのだ。(P.288)


塩野さんは実は私あまり名文家とは思っていないのですが(たとえば小林秀雄あたりとの大いなる違い)、それは、「のだ」「のである」という強調が頻繁に登場することにもあります。


司馬遼太郎にも似た、講談の語り口、塩野節と私が勝手に名付けるゆえんですが、しかし、語り口には大いに魅力があります。



それにしても、ローマ帝国の最後はドラマティックではありませんね。

・・・476年、ローマ帝国は、こうして滅亡した。蛮族でも攻めて来て激しい攻防戦でもくり広げた末の、壮絶な死ではない。炎上もなければ阿鼻叫喚もなく、ゆえに誰一人気づいた人もいないうちに消え失せたのである。・・・ただ単に、誰一人皇帝にならなかった、だけであったのだ。・・・(P. 272)


たぶん、私が、恥ずかしながらこの年になって国学を知りたいなんて格好つけたのも、ローマ世界の最後を読み終えたからかもしれません。