東京で暮らす日々

  1. 東京に戻って2週間経ち、日々の暮らしの違いを感じています。

外出は、歩くか電車やバスに乗ってです。田舎ではどこに行くのも車です。最近は高齢者を対象にオンデマンドの乗り合いタクシーが発足して、割安で利用できます。

2.東京の我が家だと、食料品の買い物が厄介です。自宅から下北沢の駅周辺まで歩いて10分強、結構きつい坂があります。

 先週は「駅前のカルディで珈琲を買ってきて」と妻に頼まれて買物代行をしましたが、暑い日で、坂の中途で一休み。くたびれました。

 そういえば先週、仲間10人が昼食会で集まったときです。女性の一人が、「来る途中に、熱中症で道路に倒れた人を見た。この夏これで3人目」と言い出して驚きました。   

 60代の彼女は自転車利用が多く、その途次での出来事だそうです。何れも老人で2人は女性、頭から血を流して意識を失った状態だった、と言っていました。歩いて買物に出掛けるしかない老人が少なくないのでしょう。

3.下北沢の他、昨年であれば帰京すると真っ先に行くところに渋谷がありました。東急本店内の「丸善ジュンク堂」に久しぶりに寄るのが楽しみでしたが、今年3月閉店しました。 

いま私が頻繁に訪れるのは歩いて15分ほど、東大駒場のキャンパスです。

今回も帰京してまずは、散歩がてらキャンパスまで往復しました。

図書館に入り、カフェで憩います。生協で文房具を買います。書籍部もあります。田舎にはまともな本屋はありません。

学生時代より足しげくキャンパスに通っているかもしれません。

4.生協で「情報カード」を買おうと探したところ、「置いてない」と言われました。

サービス窓口で見本を見せたところ、在庫があるか?取り寄せできるか?訊いてみ

ると言われました。

お願いして名前と連絡先を知らせて、隣の書籍部に入って立ち読みしていたら名前を呼ばれました。

いま頼んだばかりの担当者です。「電話で確認できました。OKです。1箱369円。来週には入庫します」と言われました。

隣の本屋にまで、わざわざ私を追っ掛けて知らせてくれたことに感謝しました。機械で注文したり買ったりするのが当たり前になった時代に、対面で生の人間と話ができるのは実に良いものだと嬉しかったです。

  1. 東大生協にも情報カードが置いていないのは、もはや教職員も学生も利用しないということでしょう。

私は現役時代から大いに重宝しています。生来記憶力が弱いせいもあって人の話で興味深い点や散歩中思いついたことなど、カードにメモするのが習慣になっています。

  1. しかしいまでは、スマホをメモ帳替わりに使うのが普通になったのかもしれません。

もっとも日本では以前から、メモ帳に手書きする人を見たことが殆どいなかったと思います。

そもそも情報カードにメモする場合はメモ・パッドが必要ですが、日本ではあまり売っていません。

いま使っているのは、コロナ前に英国の娘の家に滞在したとき、ロンドンのボンド・ストリートにある「スマイソン」で買いました。洒落た文房具の店で有名です。店員とお喋りしたことも懐かしく思い出しました。

「せめては・・・きままなる旅にいでてみん」

  1. 一週間前の日曜日、夏を過ごした田舎家から二人で帰京しました。

蜜柑箱を二つ宅急便で送り、重いキャリーケースをそれぞれ引っ張り、私はPCと妻のアイパッドを入れたリュックも背負って移動しました。

 中古のレンタカーを返し、茅野駅から新宿まで特急「あずさ」で2時間ちょっと、小田急線の東北沢駅で降り、炎天下のなか汗をふきふき、またゴロゴロを引いて自宅に帰り着きました。

 自転車に乗る人が(とくに歩道に)多いのに、改めて「都会だな」と感じました。

  1. 茅野駅では、最近「みどりの窓口」がなくなって駅員は減り、切符を買うのも機械対応です。

ジパングという高齢者割引制度があり、切符購入時に手帖を提示することが必要です。機械から呼び出すと集中窓口に繋がって、画面越しに会話をして対応してくれます。老人は慣れるまで時間がかかり、数少ない駅員に訊きながら操作する人がまだ少なくありません。

  1. 荷物のことを考えると車の移動の方が利点が大ですが、中央高速を運転するのはこの年ではさすがに疲れます。

その点電車は楽で、Masuiさんから頂いた山旅の本を手に車窓の眺めを愉しみます。電車は昔はもっぱら本を読む場所だったのですが、最近は目もかすみ気力も衰え、ぼんやり窓から眺めるだけで時間が過ぎます。

萩原朔太郎の詩「旅上」がいつも頭をよぎります。

ふらんすへ行きたしと思へども、ふらんすはあまりに遠し

せめては新しき背広をきて、きままなる旅にいでてみん

汽車が山道をゆくとき、みづいろの窓によりかかりて

われひとりうれしきことをおもはむ・・・・」

  1. それでも、新宿から小田急線への乗り換えなどエレベーターが整備されて、そういう点は便利になりました。エレベーターは荷物を持った老人やベビーカーと一緒の若い母親ですぐ満員になります。お互いにちょっと相手を労わる雰囲気も感じられます。

赤ちゃん連れや障害のある人や老人が比較的外出しやすい社会になっているとしたら有難いことです。

  1. それしても暑さは続きます。

茅野でも静かな・涼しい図書館で過ごしました。

そこで読んだ8月某日の新聞には、「これから日本列島は、四季が“二季”になっていくと考えられる」という言が紹介されていました。

「夏が長くなって、秋と春が縮まって、冬は冬でちゃんと寒い」、そんな気候になるらしいです。

 

6.茅野の図書館では、「文学界」という雑誌も広げて、「老耄(ろうもう)よりの忠告」という作家・筒井康隆の短い文章を読みました。

「読者諸氏におかれては、いつかは老齢となる日が来るであろうことに留意されたい」と始まり、「歳をとって情けないことがある」と幾つか例をあげます。

 その上での心構えとして、

大江健三郎(略)といった同世代(略)がどんどん亡くなっていく中、彼らを心で葬い続けるのも仕事のひとつと思っている。滅多に逢うことのなくなった友人たちのことを思い続けるのもそうだ。歳をとるというのは悲しいことだが、泣いてばかりはいられない・・・」

ちなみに、大江・筒井の両氏はともに88歳です。私もこの夏は蓼科で、もっぱら大江健三郎を読みました。

「七十八年経ちましたね」父の遺影に・・・

  1. 本日はこれから妻と二人、レンタカーを返して電車で東京に戻ります。今年の夏も田舎で緑に包まれて暮らしました。

その間、当地もすっかり秋めきました。蕎麦の花が盛りで、稲も色づきました。今年の夏は当地も暑く雨が少なかったので、生育も刈り入れも早そうです。

 夏の終わりの里山の眺めは、いつも美しい日本の風景として心に残ります。

  1. 約2か月、人との出会いも良い思い出でしたが、一人で過ごした時間も多かったで

す。午前中から、庭に椅子を出して緑陰の読書です。

先々週の娘と孫二人の滞在中は自分の時間を十分とれなかったので、彼らが帰国してからは、たまった新聞や読みかけの本を拡げました。

  1. 紙の新聞といえば、東京と違うのは夕刊がありません。

(1)しかしこんな山奥にまで朝早く配達してくれて、起きるとポストに入っていて、感謝することの一つです。(若者ならまずスマホでしょうが)一日分の新聞を広げるのは朝の楽しみです。

何れこういうサービスも無くなるでしょうが。 

(2)報道記事より、特集やコラムや投書欄などが好みです。

例えば、8月15日(火)の「毎日歌壇」には、林田さんという女性のこんな短歌が一席に選ばれました。

 ―「七十八年経ちましたね」父の遺影に「お父さん、もう傘寿です」―

 選者の「評」は以下の通り ―「父親は敗戦の年に世を去ったのだろうか。であれば作者は2歳の時。父親に語りかける文体を生かした歌は深く心に響く。

  1. 私であれば、敗戦の年は6歳、しかしこの年に父親を亡くしたのは同じです。

(1)その私は、素人雑誌「あとらす」の今年の夏の号に、恥ずかしながら、「「南洋」・「戦争」そして父」と題して、父親のことを載せました。

(2)先の戦争が始まる前から日本は、いまの東南アジア地方を「南洋」と呼び、その殆どは英仏蘭の植民地でしたが、地理的にも近く、資源も豊富なこれらの国々と経済的な結び付きを強めたいと考えていました。

(3)その希望は、結局平和的な交渉では解決できずに、英米への宣戦布告とともに日本が一時軍事占領することとなり、その後の敗戦で敗退しました。

(4)父は当時30代後半、某官庁の課長として、そういった交渉団のメンバーの一人に加わったのですが、欧州での戦争が激化する中で交渉は成功せず、日本自身が戦争を始める悲劇になりました。

(5)そんな、いわば果たせなかった平和外交の歴史の一齣について、父の著書や妻に送った手紙を紹介しつつ雑文を書きました。

  1. 関係ない方には、面白い内容では全くないのですが、

(1)42歳で広島で死去した父の、一時期の活動を書き残しておきたいと長年考えていました。

(2)子供たちにも、戦争に向かう時局のなかで苦労した祖父がいたことを知って欲しいと思い、孫を連れて英国からやってきた娘にも渡しました。

(3)彼女は、何とか帰りの機内で読んでくれました。無事に自宅に帰り着いたとメールが届き、

「飛行機の中で、お陰様で「あとらす」も読めました。お祖父ちゃまの話は知らないことばかりで、大変興味深く読みました。共有いただき有難うございます」と書いてくれました。

(4)とにかく読んでくれただけでも有難いことだと感謝し、今年の夏の思い出の一つになりました。

 

豆台風、英国に去る

  1. 私事ばかりで恐縮ですが、次女と孫2人は1週間前に田舎の我が家を去り、翌々日

無事に英国に戻りました。

茅野駅まで送り、帰りがけに昨年も利用したコインランドリーに寄って、大量の洗濯物を乾かしてから帰宅しました。こういう施設は地方都市の方が便利かもしれません。

2.静かになった田舎家で老夫婦は、気が抜けた気分になりました。

頂いた皆様のコメントのお礼にも書いたのですが、先方の立場で考えれば、時間とお金を使い、小さい子どもと重い荷物を抱え、時差に悩まされながら、貴重な夏休みを使ってはるばる英国から来てくれるのは感謝しなければいけないと思っています。

そして、「孫の成長は早い」ですから、もうすぐ反抗期の年頃になって遠い祖父母のところまでやってくるのもそろそろ卒業かもしれません。

そう思うとちょっぴり寂しくなります、

3.老夫婦はいまも、豆台風滞在時を思い出したり、話し合ったりします。

畑に行き、長女夫婦が育てたトマトや枝豆を収穫しました。

次女の親友も東京から一泊で来てくれたので、参加しました。

「皆いかにも我々が野菜を作ったかのような顔をしているのが笑えます。子供達も

貴重な収穫の体験をさせて頂き有難うございました」とは娘からのメールです。

最後の夜は皆で二度目の輪唱を歌い、花火をしました。

4.多少はお喋りの機会もありました。

英国の話も出ましたが、目下「政治も経済も社会もひどい」そうです。

8月16日の日経のコラムにも、

「(英国の)インフレ率はピークをつけつつも8%近傍にあり、先進諸国で最も高い国の一つ。インフレと金利上昇に伴う生計費危機と住宅ローン危機が市民生活を襲っている」

とあります。

 日本も決して褒められた状況ではありませんが、外国からやってくると、円安のメリットがあって、自国の物価高騰を余計実感しているようです。

それでも、「教育は優れている」というのが娘の持論です。

5.11歳の孫息子も入った会話で、

「どこの国に住みたいか?」という話題になりました。

英国と日本は別格として、二人が名前をあげたのは、北欧、スペイン、イタリアなど行ったことのある国々です。

行ったことのない国では、オーストラリアとカナダです。アメリカや、欧州でもフランスなど出てきません。

自らの状況をふまえて、「異国人に住みやすい、多様性のある国々を選んでいるのかな」と考えました。

  1. 戦争についても少し話しました。

先の戦争や日本の憲法9条にも触れました。11歳でどこまで理解したかどうかは分かりません。

最後に娘が、「子供のときから海外暮らしが長かったので、私もまだ広島を訪れていない。何れ二人を連れて広島を訪問したい」と言ってくれました。何となく胸が熱くなりました。

 8月6日の「核なき世界へ思い新たに」と題する毎日新聞社説はこう報じています。

「改めて被爆地の発信力が注目されている。

原爆資料館への)入館者は今年度、急増している。4~7月は昨年度の約28万人に対し、約66万人が訪れた。過去最多となるペースだ。

 目に付くのは外国人の増加だ。(略)入館者に占める割合は今年度は4割に上る」

今年も英国からの豆台風

  1. 80歳を越えた高齢者にとって、八月は「先の戦争」を思い起こす時期で、前回は

そんな辛い過去を俳句に残す人たちを紹介しました。

佐竹さん、伊藤さんから、子供だった自分が78年前の「終戦の日」をどこで迎え

たか、伝えて頂きました。

Masuiさんからは、コメントを頂きました。

 「(例年)終戦記念日近くには太平洋戦争に関する本を読み、仲間と「どうすれば戦争を避けられたか?」など話し合うのですが、今年は(高齢化が進み)実現できませんでした。戦時中を知る人が少なくなって行くことをしみじみ感じます」。

  1. 他方で、我が家の「戦争を知らない子供たち」の話です。

今年も次女と孫2人が英国からやって来て、5泊しました。1年1カ月ぶりです。

昨年の来日は7月下旬の夏の盛りでしたが、今年は夏休みも終わる頃で高原も静かです。

今回も観光地を出歩くことはなく、近くを散歩するぐらいで、もっぱら田舎の家とごく近くで過ごしました。

  1. 食事も外食はせず、すべて自宅での素朴な家庭料理でしたが、これが英国組には好評でした。

孫二人は、普段はなかなか食べられないご飯とお味噌汁を「おいしい」と叫び、ハンバーグやカレーやおそうめんに満足しました。あとは取り立ての野菜です。

長女夫婦が育てた今年のじゃがいもや枝豆は気候のせいもあってか小粒で量も少なかったですが、味は上出来で喜ばれました。

  1. 昼間は、庭や家の前の道路で遊びます。ひとりで過ごす時間はタブレットをいじり、絵を描き、・・・1年経って下の娘も自立するようになり、手がかからなくなりました。

夕食後は昨年と同じく「うるわし春よ♪」を輪唱し、あとはトランプ遊びです。

  1. コミュニケ―ションが若干の問題です。

二人とも母国語は英語で、日本語を学校で習ったことがなく、11歳の男の子は日常会話は問題ありませんが読み書きは苦労します。

5歳の女の子は、こちらの言うことは理解するが自ら受け答えるのは、英語が先にることが多いです。

ということで、我が家にあった古い英語の絵本を見せたところ、喜んで読みました。昔、彼らの母親(次女)とその姉(長女)とが小学生の頃に愛読した本です。

リチャード・スケアリーというアメリカでもっともよく知られた絵本作家が文も絵

も描いていて、我々のような大人でも英語を覚えるのに役立ちます。

見せたのは「人々は一日何をしているのだろう?」と題する絵本で、様々な仕事を

している姿が楽しい絵と説明とで紹介されて、日常生活で使う単語を自然に覚えていきます。

 

 



6.娘は、平日は仕事で夜まで家を留守にし、週末は家事や買い物などで忙しく、母親としてゆっくり二人と付き合う時間は限られます。

従って、今回のように比較的長い休暇を取得できて、こういう風に親子で静かに過ごす時間がいちばん貴重だと喜んでいました。

平凡で平和な日常を家族で過ごすことがどんなに大切か、あらためて感じました。

 

 通学している英国の学校には、欧米に加えてアジア・アフリカなど多様な子供たちがいて仲良くしているそうです。

 多様な友人をつくり、英語を母国語としつつも一人の日本人として、日本食を愛し日本の人たちや風物を懐かしく思い出し、平和を愛して生きていってほしいものです。

「戦後78年、命あればこそ」

1.当地もお盆休みは人出が増えました。

長男夫婦も田舎家に2泊してくれました。短い夏季休暇です。この機会に一緒に外出もし、少し贅沢な時間を楽しみました。

  1. いつもの市営の温泉ではなく、蓼科温泉滝の湯にあるホテルの日帰り入浴に行きました。台風7号がもたらす雨に濡れながら、渓流を眺める露天風呂につかりました。

外食は夜はお寿司、昼は蕎麦。寿司「なが田」ではまだ新子(小肌の稚魚)を握ってくれました。

蕎麦屋「黙坊」のメニューはもりと蕎麦がきしかありませんが、どちらも絶品です。

蕎麦のあと通りの向い側にある「銀のポスト」で珈琲をと思って寄ったのですが、あいにく8月15日の終戦の日はお休みで、諦めました。旧郵便局を改装した喫茶店です。

  1. 15日の午後に彼らは帰り、また静かな時間に戻りました。

たまった新聞やメールを眺めました。13日の毎日新聞は、「戦後78年、命あればこそ」と題して、91歳の最高齢から14歳の中学生までの5人の、先の戦争を思い、いま平和に生きる大切さを考える投書が載っています。

4.読書会のMさんから仲間あてのメールには、「今日は 8月15日なので 東京新聞には平和の俳句が載っていました。17文字に託す平和への思いそれぞれ胸に沁みます」とありました。

 東京新聞は、戦後70年になる8年前、「平和の俳句」と題する投句を一般に呼びかけました。今年も応募6748句の中から30首が選ばれました。

 例えば、「人類の滅びぬための原爆忌」(81歳の男性)。

  1. このメールに、Eさんから返事がありました。

「手近にあった「ホトトギス新歳時記」で、終戦や敗戦を詠んだ句にはどんなものがあるだろうと索引を調べてみて驚いたのですが、この伝統俳句系の「ホトトギス新歳時記」では、終戦敗戦の日を季語(季題)として立項していない様なのです」とあり、私も驚きました。

 

私の手許の古い「山本健吉編最新俳句歳時記」(文藝春秋、昭和46年)には「原爆忌」も「敗戦忌」も載っています。前者は夏の、後者は秋の季語とされます。

 流派の違いに加えて、時代の流れも大きいのでしょう。生存する被爆者の平均年齢は85歳を超えたそうです。原爆も戦争も実体験としては知らない若い世代が圧倒的多数になりました。何れ、追悼し追憶する機会も消えていくのでしょうか。「死者とともに生きる」ことの大切さを忘れたくないと思うのですが。

  1. そういえば、日経俳壇の選者を25年続けた黒田杏子(ももこ)さんがこの3月、

84歳で亡くなりました。

黒田さんは毎年8月には必ず、原爆や戦争の日を詠んだ句を選んでいました。別の選者の選句で見たことはありません。

私も過去のブログで、たびたび紹介しました。

例えば、少し古いですが2009年には一席となった高橋冨久子さんの、

「命とは一握の灰原爆忌」。

これには黒田さんの次のような解説がありました。
「旧広島県 立第一高等女学校1年13歳の作者は勤労動員を体調不良で欠席。
 出席の生徒223名全員が被爆死した。
 原爆の句を作ることは即ち祈ることであると記す作者である」。

この方にはこういう句もあります。「友らひとりも棺なし爆忌くる」。

やはり「季語」として残して欲しいです。

広島原爆の日に第28回茅野市平和祈念式

  1. 先週の日曜日(6日)は広島原爆の日。二人で茅野市平和祈念式に参加しました。

2015年の第20回から出ています。それ以前はこの時期まだ京都に居ました。

 

2.私がいま住んでいる茅野市では、広島・長崎に原爆が投下されてから50年の1995年、市・市民からの募金を得て、公園内に「原爆の火・平和の塔」が出來ました。

翌96年、「塔」の前で第1回平和祈念式が行われ、今年で28回目を迎えました。

  コロナ感染の広がるなかでも、マスク着用、間隔を開けて座るなどの対策を講じつつ、一度も休むことなく毎年この日に実施してきました。実行委員のボランティア活動に頭が下がります。

3.今年は、出席者も100人近く、コロナ前にほぼ戻ったでしょう。

但し式次第は短縮されたままで、市長挨拶のあと、午前8時15分に1分間の黙とう、広島・長崎両市長からのメッセ―ジ披露、有志が折った折り鶴を捧げ、全員の献花で終了しました。

従来はそのあと皆で、「♪ああ許すまじ原爆を、三度許すまじ原爆を、世界の上に」で終わる歌を歌うのですが、コロナ以降無くなりました。

 

4,式の議事進行は、地元の高校の生徒会役員3人が担当し、両市長からのメッセージ

は中学生男女10人が代読しました。

 こういう場に若い人が活動する姿を見るのは嬉しいです。

5.出席する前に、PCに「茅野市平和祈念式」と入れて検索してみました。

検索画面の1頁に私の昔のブログが2つ載っているのに驚きました。私のブログを見る人などごく少数なのに、きっと検索する人が少ないのだろうと少し寂しく感じました。

 

6.検索の2頁目には、「長野県茅野市の「原爆の火」維持困難、カレンダー購入で支援を」という昨年11月9日の記事もあります。

 「ロシアのウクライナ侵攻などによる燃料費高騰で、「平和の塔・原爆の火」の維持が困難になっているとして、同市平和祈念式実行委員会が支援を求めている。画家いわさきちひろ作品のカレンダーを販売し、売上を資金に活用する。「今年は例年以上に燃料の確保が難しい」と協力を呼び掛けている」。

原爆の火」(広島での原爆投下時の残り火)は1995年以来ここでも燃え続けています。何とか続いて欲しいと願います。

7.最後に、検索画面の上位にある、2019年のブログ「平和祈念式典とジョン・レノンの「イマジン」」に書いたことの一部です。

(1)この年の式に出席したところ、地元の永明小学校の6年生が担当の先生と参加していた。たまたま隣に座った先生から話を聞いた。

(2)「総合学習」の時間に「平和」について学習した。

「日本が過去に経験した戦争の悲劇を、まず知り、考える」ために、

・原爆の出来事について調べて発表する。

・数か月かけて千羽鶴を折る。

・「平和の塔」の掃除活動を続ける。

・「原爆の火」を茅野市に持ち帰った人から話を聞く。

・そして、最後の授業では、「50年前に平和への願いを込めて作られたジョン・レノンの「イマジン」を皆で歌いました。世界中の人たちと同じ思いを共有できるようにと願い、英語で歌いました」。

 

(3)こういう先生がいるのだ、と聞いていてちょっと胸が熱くなりました。

彼ら・彼女らはいまは高校生。皆で「イマジン」を歌ったことを覚えているでしょうか?