タイム誌「私たちはトランプの時代に生きている」

  1. カレンダーの写真を2枚載せました。 一つは京都の友人から頂いた「舞妓さんカレンダー」。もう一つは、友人の奥様作成の、前年の海外旅行で撮った写真付き。今年は、彼女が昨年長期滞在したフランス風景です。

         少しは良い年であってほしいと願っています。

2.気になるのが、20日に就任するアメリカのトランプ大統領です。

(1)米タイム誌の「パーソン・オブ・ザ・イヤー(今年の人)」選出は1927 年から続く同誌の看板記事です。

その年、「(良くも悪くも)世界に最も影響を与えた人・人たち」を年末に選びます。

 

(2) 4年に1度の選挙で当選したアメリカ大統領は、必ずその年の「今年の人」に選びます。

 例えば、2016 年は1期目のトランプで、「President of the Divided States of America」。“分裂したアメリカの大統領”、と名付けました。

 2020年はバイデンとハリスで、「アメリカの物語を変える二人」と名付けました。

 

(3) 2024年「今年の人」はむろん2度目のトランプです。

ですから今回の選択は予想通りで、例えば2023年にテイラー・スィフトを「アメリカ最大のソフトパワー」と名付けて選んだような新鮮さも面白味もありません。

  1.  今回のタイム誌は、「(アメリカの)選択」とだけ題してトランプについて語ります。

(1)2016年の大統領選挙に勝利したドナルド・トランプほど、(良かれ悪しかれアメリカ政治と歴史の道筋を大きく変えた人物はいなかった。

その彼が2020年の2期目の挑戦でバイデンに敗れ、その後の議事堂乱入事件との関わりや刑事訴追を抱えて、一時は1期目で終わりと思われた中で選挙運動を戦い、大復活の勝利を実現した。

 

(2)その背景として、「私たちは、ポピュリズムが復活し、21世紀に構築された国際システムへの不信感が増大し、リベラルの価値観がよりよい生活につながるという信頼が失われつつある世界を目にしている。

トランプは、その代理人であり、受益者であり、強力なトランプ政権によるこれからの4年間は、世界に大きな影響を及ぼすだろう」。

 

4.その上で同誌は、トランプ氏を「今年の人」に選んだ理由について、

(1)歴史的な大逆転劇を演出し、

(2)一世一代の政治の再編成を成し遂げ,

(3)アメリカ大統領という存在を作り変え、アメリカの世界の役割を変えた、

の三点にあるとして、

(4)「我々の誰もがいま、最も熱狂的な支持者から最も厳しい批判者に至るまで、“トランプの時代”に生きている」

と総括しています。

豆台風は日本滞在で何を得たか

  1. 次女夫婦と二人の孫が英国に帰って10日経ち、静かな日々が戻りました。

(1)膝が痛む妻に同行して整形外科に行ったり、買物を代行したりで時間が過ぎました。

 

(2)英国組の来日は例年夏休みが多いですが、昨年は桜の頃と年末年始の2回でした。

時差の調整もあるし、時間とお金を使ってよく来るよと感謝しつつ、娘夫婦の懐具合も気になります。

向うは「会わせたい」と思うのでしょうが、当方はそんなに無理しなくてもと、思いに少しずれがあります。

娘自身も、たまに日本の空気を味わい、ストレスを発散したいかもしれない。

(3)子ども達に、日本への愛着とつながりを持ち続けてほしいという気持ちも強いでし

ょう。

二人は英国生まれ・育ちで学校は現地校。兄妹同士の会話はほとんど英語です。

上はもうすぐ13歳で、日本流の中学3年生。この9月からは全寮制の5年間の高校で学びます。

(4)学校では英語漬けです。滞在中の我が家でも、毎朝勉強をしていました。

例えばパソコンに向かって、「“ローマ帝国の興亡”について資料を自分で検索してエッセイを書く」課題に取り組む朝もありました。歴史の宿題だそうです。

映画にもなった大長編『指輪物語』の最後の1冊『王の帰還』を読まされてもいます。

外国語ではフランス語とラテン語を学んでいます。

  1. その上での日本語はなかなかハードでしょうが、親としては、滞在時に少しでも日本語に慣れさせようと努力しています。

我々とのコミュニケーションは日本語です。

親の努力もあってか日常会話は問題ありません。読み書きは苦手です。

(1) チェスとジンラミーというトランプ遊びを教えてもらいました。

日本語で人に教える時間も、彼らにとっては勉強になる筈です。

(2) 加えて、父方の祖父母から音楽のレッスンを受ける時間もありました。

 7歳の孫娘は昨年6月に能舞台に登場する機会があり、今回の滞在でもお稽古に行きました。これも、小さい時から古典芸能を通して日本文化に触れてほしいという、親の願いかもしれません。

 

3.彼らがこれからどう生きていくか?

(1)見届ける時間は私にはありません。

しかし 例えば人種は日本人だが、慣れ親しんだ言葉や学校や友人は英語であり英国であるという人間は、これからの世界で珍しくないのではないか。

(2)その上で、新年だから初夢を語れば、そういう存在が「コスモポリタン世界市民)的」生き方として肯定されるような世界が広がってほしいと思います。

(3) ただその場合も、自らのルーツに日本があるという自覚と、日本文化への関心と愛着は持ち続けてほしい、とも願っています。

2025年元旦の「全員集合」


1.新しい年を迎えました。

相変わらず埒もない、私事中心の雑文ですが、今年もよろしくお願い致します。

 

  1. 年末年始の東京は好天が続きました。

(1)昨年12月23日から一時帰国をしていた在英国の次女一家が、1月2日早朝に羽田空港から離日、無事英国に帰りました。

(2)彼らは日本に10泊し、前半はホテル、後半の5泊は次女と孫二人が狭い我が家で寝起きしました(夫は実家に泊まる)。

 

(3)日中は彼らだけで出かける機会が多いですが、夜には帰宅するので、それから後は我々と共同生活です。家の中は「常にゴミ箱並み」と妻が嘆くように雑然と、しかし賑やかでした。

(4)元旦は終日彼らと共同行動で、六本木の国際文化会館での「全員集合」に参加し、「おせち料理」を頂きました。

そして元旦の夜遅くまで帰国準備をし、2日の早朝、大量の荷物とともにタクシーで羽田に向かいました。

 

(5)彼らを見送ったあとの我々は洗濯・掃除などの後始末。

奮闘のせいか、老妻は膝の痛みと風邪に悩まされています。

私はひとり、近くの北沢八幡宮まで初詣に行き、彼女の快癒を神様にお願いしました。

 

3,国際文化会館での食事会について最後に補足します。

(1)昨年までは、1月1日の午後は我が家に子ども達・孫達が集まって、夜まで賑やかに過ごすのが長年の恒例でした。

もてなしの主役は老妻にならざるを得ず、年とともに彼女の負担もしんどくなってきました。

 

(2)そこに来て、今年は次女一家までが元旦にも我が家に滞在し、自宅での大勢の集まりは無理と判断し、国際文化会館が毎年やっている、「おせち料理」の食事会に「一族全員集合」することに切り替えました。

 

(3)結果的には成功裡に終えることが出来ました.

ここはホテルほど豪華ではありませんが、会員制のクラブでこじんまりして、お値段も割安、サービスも上等です。きれいな日本庭園もあります。長男と長女の結婚披露宴に使った場所でもあります。

(4)当日は、1歳から85歳まで、親が2人、子供と連れ合いが6人、孫と連れ合いが5人、曾孫が2人、総勢15人の全員が集まりました。

良い天気だったので食事のあとはお庭に出て、過ごしました。

翌朝帰国する英国組はそのあと一緒に我が家に戻り、子供や孫たちも寄ってくれて、ゲームをしたりして夕方には解散しました。

 

4.普段は老夫婦だけの静かな日々だけに、さすがにくたびれました。

良いお正月でしたが、その後は二人でぐうたらと過ごしています

 今年最後のブログです。

1.このブログも今年最後です。

皆様には良いお年をお迎えください。

私は、猛暑の夏以降やや体調すぐれず、老いを実感した一年でした。

それでもブログは毎日曜、今年も何とか続けることが出来ました。読んで下さる方は少ないが、私自身には備忘録の効用が大きいです。

  1. 年末にかけて忘年会にも幾つか参加でき、恒例のヘンデル作曲「メサイア」も

聴きました。

(1)「メサイア」はキリストの生涯を扱った、独唱・合唱・合奏からなる3時間を超える壮大な宗教曲です。

三部構成から成り、第1部は救世主(メシア=キリスト)到来の予言と降誕。第2部は受難と復活(最後が「ハレルヤ・コーラス」)、第3部は死への勝利と賛歌、「アーメン・コーラス」で終わります。

(2) 今年も青山学院大学講堂でのオール青山による、第49回公演でした。

長女夫婦と4人。長丁場ですが、私も無事に最後まで視聴しました。

100人以上の大合唱団の歌う「ハレルヤ」に感動し、4人のソリストも合奏団も素晴らしかったです。

(3) 「メサイア」を初めて聴いたのは、中学2年生の時。日比谷公会堂での芸大の公演でした。

中学の音楽の先生が芸大OBでチェロを弾いており、先生に声をかけられて友人と行きました。以来70年以上、毎年12月には、京都でも海外でもずっと生演奏を聴いてきました。「メサイア」を聴かないと一年が終わらないという気持ちです。

(4)果たして来年も、長時間外出して音楽に耳を傾ける体力があるかどうか。

今年は終わってから4人で近くの居酒屋で二次会も過ごし、愉しい夜でした。

両親が子どもの世話にならずに二人だけで何とか暮らしていることに感謝している、とは長女の言です。周りには、親の介護に時間をとられる同世代の友人が少なくないようです。私たちもいつどういう状況になるか分かりませんが。

 

3.先週初めには、次女夫婦が2人の孫を連れて英国ロンドン郊外から一時帰国をしました。年末年始を日本で過ごし、1月2日朝、英国に戻ります。

 

(1) 「半分はホテルに泊まって貰いますが昼間は大体此方に来て居ます。もう老骨に鞭打って13歳と7歳の子供に付き合うのはシンドイです」とは妻の弁。

(2)寒いけど天気の良い日が多く、昼間は外に連れ出しました。

歩いてすぐの東大付属のリサーチセンターには、芝の広場があり、ここで二人は駆け回り、老人はもっぱら見守ります。

6歳の年齢差があっても、兄妹二人が一緒になって遊んでいるのは良い光景です。

「子どもは日々成長し、手もかからなくなる。

他方で老人は日々衰え、手もかかり、介護も必要になるね」

そんな会話を妻としました。

京都祇園と豪州ジドニーの繋がり

  1. 前回は日本被団協ノーベル平和賞授賞式を取り上げました。

(1)岡村さんのコメントは、

「50 年以上昔、旅先のノルウェーの街で現地の高校生に原爆投下について訊かれ、うまく応答できなかった。今回、日本の高校生の平和大使が授賞式に参加し現地で話し合っている映像を観て。自分の代わりに喋ってくれたことが嬉しかった」。

 

(2)Masuiさんからは、「共感した。「核のタブー」の確立がさらに進んでくれることを強く願っています」。

 

(3)核廃絶に向けての言動が若い世代に継承されていること、「日本被団協が代表団の旅費を募っていたクラウドファディングの賛同者が一日で目標額の1000万円を突破した」との新聞報道も知りました。

この国もまだまだ捨てたものではないなと思います。

2.今年もブログには、毎回岡村さんからコメントを頂きました。

(1)ブログを通しての今年一番の出来事は、京都祇園町会長の岡村さんと、豪州シドニーのマドンナ野田桂子さんとの交流が実を結んだことです。

 

(2)この話は、7月28日のブログで取り上げました。

京都とシドニーを結ぶ一枚の写真 - 川本卓史京都活動日記

発端は、岡村さんが自身の姉上など古い舞妓さんの写真を私のブログに載せてくれた。

これに野田さんが反応してくれた。

彼女の父親は西陣織の名匠で、舞妓さんの帯を幾つも作っており、祇園との付き合いも深く、当時若かった桂子さんも、写真の舞妓さん何人とも親しかったというのです。

(3)その一人(村上さん)が岡村さんの小学校の同窓生で、久しぶりのクラス会で会った。

その際、彼女が舞妓さん時代に野田さんの父上がデザインした帯を締めて撮った写真まで見せてくれた。

それを親切な岡村さんが、シドニーの野田さんに送ってくれた、という心温まる話です。

3.以下、岡村さんの報告を引用させて頂きます。

(1)  野田さんから、ご主人や弟さんにとって、身体も弱くなり気難しいお父様だったようで、村上さんがよく面倒を見てくれて助かったと家族全員が感謝してるという話しでした。

 

(2)(村上さんは)「なんにもしてへんえ」と言ってますが、彼女からもお父様にお多幸(銀座に本店がある有名なおでん屋)に連れて行って貰いお母様ともご一緒した話を聞きました。このような付き合いがあった事自体に感心しています。

 

(3)野田さんにとっても優しくしてもらった事が彼女には忘れられないようです。

子供三人と写した写真には、野田さんが持ってたビーズのハンドバッグが気に入り「欲しい欲しい」とお母さんに言って買ったお揃いのハンドバッグが写って居ます。

 

(4)野田さんと同じく彼女もご主人を亡くした事を知りました。手紙を添えて昨日クリスマスカードを送りました。

 

4引用は以上ですが、「なんにもしてへんえ」という京言葉が、いかにも祇園の舞妓さんの気風を感じさせるな、と感じ入りました。

2024年のノーベル平和賞授賞式

  1. 残り少なくなったキャンパスの銀杏の葉を、惜しみつつ眺めています。

  1. 先週は、日本被団協日本原水爆被害者団体協議会)のノーベル平和賞授賞式がありました。受賞のニュースは10月20日のブログに取り上げました。

今年のノーベル平和賞は日本被団協へ - 川本卓史京都活動日記

(1)1時間16分の「式」の模様は、ノーベル委員会のサイトからいまも視聴できます。

(2)「非現実的・ナイーブ」という批判はいくらもあるでしょうが、核廃絶を求める日本人の長年の活動にノーベル賞委員会が注目し、今年の推薦候補197個人と89団体の中からこの団体を選んだという事実に、私個人は意義深いものを感じています。

(3)授賞理由は、

被爆の実態を伝えることを通して、核兵器の恐ろしさを世界に訴え、「核のタブー」の確立に多大の貢献をしたこと。

3.「式」はノルウエーの首都オスロで現地時間12月10日午後1時から。

受賞者を代表して3人が登壇し、国王夫妻と皇太子夫妻が列席して始まりました。

 

(1)ノーベル賞委員会委員長による授賞理由説明のあと、音楽演奏を経て、賞が授

与され、田中代表理事の20分強のスピーチ。

(2)終わると国王夫妻を始め全員のスタンディング・オベーション

そして演奏と歌唱による「荒城の月」が披露され、王室4人がメンバーそれぞれと握手をして、式は終わりました。

4.田中さんのスピーチは20分強。車椅子で現れた92歳の氏は、演壇では立って、しっかりした日本語で語りました。

 

(1)団体の運動について説明し、1つは被爆者の支援・救済、2つは「「核兵器は極めて非人道的な殺りく兵器であり、すみやかに廃絶しなければならない」という世界に向けた訴えと活動。

(2)次いで自らの長崎での被爆体験を語る。

「その時目にした人々の死にざまは、人間の死とはとても言えないありさまでした」。

(3)そしてその後の活動内容を語り、次世代に継承されていることにも触れます。

   

(4)最後に以下のように締めくくります。

「人類が核兵器で自滅することのないように。

 そして、核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて頑張りましょう」

 

4.日本政府の反応について、11日の毎日新聞は伝えます。

「石破首相は、(略)受賞について「核廃絶に向けた発信の努力が報われたものだ」と表明。核禁条約への正式参加は「極めて困難」としながらも、オブザーバー参加については「どのようにして役割を果たせるか検討する」と含みを残した」。

今年のノーベル平和賞が日本政府に,従来からの変化を少し与えたのではないか、と感じています。

銀杏並木のこと、来年の年賀状のこと。

1.先週は好天の日が続きました。妻と二人で散歩の日々でした。

(1) 大学キャンパスの銀杏並木の紅葉が、今年は長く続きます。

(2)保育園の幼児たちが先生に連れられて、遊びに来ています。絵を描くグループもいます。平和な光景です。

(3) それでもだんだん散ってきて、落葉の季節になります。

職員が箒で掃除をするところを「ご苦労様」と通り過ぎます。

翌朝になると、また同じように落葉を敷き詰めた風景に逆戻りです。

(4)カフェで憩い、同じ銀杏並木を歩いて家に戻ります。

そんなひとときを大事に過ごしました。

2.家では、ぼちぼち年賀状の準備ですが、

(1)同世代の方から「今年を最後にしたい」と書いた賀状を頂くことが多くなりました。

(2)私もそういう時期が来たなと思い、真似をすることにしました。

(3)いつも前年頂いた賀状を確かめながら来年度のお便りを書くのですが、そんな訳で今年は、「これが最後」という格別の思いを抱きつつ書くことになります。

3.これからも会う可能性がある方々への「最後の年賀状」はまだ良いのですが、中には「年1回の賀状だけのお付き合い」という方も居られます。

そういう方にはとくに「これで終わるのだな」という思いがつのります。

 

(1) 例えば、30年以上昔、シドニー勤務時代に、現地の日本人学校を通して知り合っ

た、某日本企業の駐在員の奥様Yさん。

海外勤務では、日本企業の駐在員が交代で受け持つ仕事があり、私もボランティアでシドニー日本人学校の理事長を2年勤めました。

(2)その際、中学を卒業して、帰国して日本の高校に入学するという、Yさんの子息の

卒業証明書を発行するにあたって、母親の依頼に応じて、多少弾力的に対応したことがありました。

 細かくは忘れましたが、止むを得ない事情で卒業式を欠席したことが問題になったのではなかったでしょうか。

(3) 日本の教育委員会から派遣された校長先生は、証明書の発行は出来ないと当初は反対意見でした。しかし、「現地の裁量で許される問題ではないか。責任は私が持つから」という説得に最後は納得してくれました。

母親Yさんはひどく感謝してくれました。

それだけの出会いに過ぎませんが、以来、お互いに帰国してから約30年、賀状のやり取りだけが続いています。

(4)賀状には毎年、手書きの丁寧なコメントが添えてあります。昨年は「~次々に気の重い出来事に振り回されていますが、何事にも負けず,前を向いて生き抜かねばと思っています」とありました。

私からの最後の便りには、「ご家族揃って、どうぞこれからもお元気にお過ごしください」と書き添えました。