退院して一週間です

  1. 退院して一週間が経ち、静養の日々です。

(1)先々週の5日間は病院で、病棟のある7階の外に出ることなく、過ごしました。

病室の窓から、外の景色、富士山や、小学校の運動場で動き回る子供たちの姿を眺めました。

(2)退院に当たって「療養計画書」をもらい、「排便が硬くならないよう、水分摂取、

マグミットの接種をお願いします」という指示に従って過ごしていますが、けっこう苦労します。

(3)この間、年に一度の高校の同期会、友人との昼食会、読書会など、いろいろ予定が入っていましたが、残念ながら、すべてキャンセルしました。中にはドタキャンもありますが、皆さん理解してくれました。

2.退院して、あらためて自宅はいいなと痛感しています。

(1)何と言っても、まずまず元気な連れ合いが居るというのは、まことに有難いです。

(2)奥様を亡くされて独り暮らしの、あるいは奥様の介護をしている、先輩や友人の顔を誰彼と思い浮かべます。私の場合は食事など家事は任せきりですが、この方たちの場合はそうもいかないだろうと、その苦労を察しています。

 話し相手が傍にいる状況は、本当に助かります。

(3)むろん我が家も決して油断は出来ないのですが、とにかく元気でいてくれと願っています。

3.退院の翌日は、年に1回来てくれる植木屋さんが狭い庭を手入れしてくれました。

無聊をかこちつつ、窓から仕事ぶりを眺めました。

(1)気になっていた桜の老木の枝を、だいぶ切り落としてもらいました。咲く花は少なくなるでしょうが、その分落葉の量も少なくなります。妻の仕事の負担が多少楽になります。

(2)植木屋の庭竹さんと暫しお喋りをしました。

彼も最近、一泊の入院で大腸ポリープを切ってもらった。幸い良性だったと話してくれました。

(3)昔の日本家屋なら縁側が珍しくなく、そこに座ってもらってお茶を飲みながら、植木やよもやま話をする習慣がありました。

いまの小さな我が家では、残念ながら立ち話です。

 

(4)この春、防衛大学パイロットコースに入学した、自慢の一人娘の話題も出ました。

パイロット志望の女子学生は数少ないでしょう。将来が楽しみです。

「庭竹さんの邪魔をしないで、適当に切り上げてよ」と妻に叱られました。

(5)彼は「世田谷の庭竹」というブログを公開しています。世田谷にお住まいの方々の庭と植物の写真が見られます。庭とも言えないような我が家とは異なる本格的な「お庭」の写真をいろいろ眺めています。

 

病室でトランプ勝利を知りました。

  1. 私事で恐縮ですが、三連休明けの5日、検査入院をして、昨日退院しました。

(1)尾籠な話で恐縮ですが、便秘がしばらく続いたあと2回下血があり、貧血になりました。

(2)某大学病院の消化器内科に行ったところ、即入院となりました。

点滴を続けながら6時間の輸血の成功を待って、大腸の内視鏡検査を受けました。

 

(3)結果は、「大腸はきれいで、問題ない。出血も止まっている。原因が特定できないが、痔の可能性が高い」。ゆえに「取りあえず退院し、今後は外来でフォローする」となりました。

(4)普通の生活に戻って構わないそうですが、薬をいろいろ貰い、便の管理が大変です。痛みがないのが幸いです。

医者からは、「痔は老化現象のひとつ。若いときから便の管理が大事。便秘と下痢を比較したら、前者の方がはるかに怖い。まずは出すことが大事」と言われました。

  1. 妻に支えられて自宅に戻りましたが、ふらつきが残り静養中です。

入院中に、米大統領選挙があり、トランプ前大統領が返り咲きを果たしました。

 

(1)何れも電子版ですが、米紙ニューヨーク・タイムズは、「米国は危険な選択をした」と題する社説を載せました。

(2)英国エコノミスト誌は、「ドラルド・トランプの勝利は衝撃的(resounding)だったが、2期目の政権も同じく衝撃的だろう」

そして、

アメリカの同盟国は瀬戸際外交、取引、裏切りに備える。

ウクライナからイスラエルまで、ドナルド・トランプに媚び、必死だ」と述べました。

(3)「衝撃的」なのは、「民主党カマラ・ハリスとの大接戦になる」との事前の予想をくつがえして、トランプの圧勝だったこと。

議会も上下院とも共和党が制したこと。これで、三権分立が世界でもっとも進んでいると言われるアメリカ合衆国の、立法・行政・司法の三つがすべて保守派に支配される。トランプは誰の制約を受けることなく、自分のやりたい放題の存在になるでしょう。

 

(4)なぜこういう結果になったかについてはたくさんの報道がありますが、

最後に一つだけ、年下の友人加瀬みきさんのコメントの一部を紹介します。

彼女は、私と同じ職場から米国の大学院を経て、首都ワシントンの某シンクタンクの研究員を長く勤めました。

 

(5)加瀬さんは言います。

・「民主党敗戦の理由はさまざま分析されますが、トランプの人心をつかむ上手さに対し民主党のおごり、自滅が大きかったと思います」。

・「トランプの下品な、しかし多くの労働者階級の人には自分たちの仲間で自分たちを理解してくれるとおもわせる話し方や表現に対し、民主党は民主主義を敬うまともな人間ならトランプを拒むべきという上から目線でした」。

そして、・「白人だけでなく黒人やヒスパニックにも「女が大統領になるのは許せない」という男尊女卑があったのも間違いありません」。

 

(6)今回も「ガラスの天井は破れなかった。それがアメリカ社会なのか」というのが、私の率直な感想です。

今年最後の茅野に行きました。

  1. 10月の末は、今年最後の茅野滞在でした

(1) 事情があって短期間でしたが、高原の静かな秋を楽しみました。

今年は、八ヶ岳の冠雪も紅葉も例年より遅いです。

(2)昨年もほぼ同じ時期に滞在したのですが、その時は紅葉の盛り。

昨年と今年の写真を並べて載せますが、景色が違います。

  1. 短い間にやることはいろいろありました。

(1)地元のススーパーに行きました。

青果売り場の主役は野菜から果物に変わりました。

(2)お昼の開店直後に、馴染みの寿司屋に顔を出して「元気だったら来年もお世話になります」と挨拶。

(3)庭の手入れや屋根の枯葉の掃除をやってくれる庭師池田さんの、今年最後の仕事も見学。頼りになる人です。

(4)親切な「家の修理屋さん」伊東さんとも、今年最後の打ち合わせ。

今年は、ネズミの侵入とハチの巣に悩まされました。ネズミの侵入を防ぐべく、雨戸の修理をしてもらいました。

それでも完全ではなく、いまでもどこからか入ってきます。私どもは「居間に入らなければ、ある程度仕方ない」と伝えていますが、彼は職人としての意地があって、「95%は侵入する穴を見つけて手を打った。何とか100%にしたい」と悔しがっています。この点は来年に持ち越しとなりました。

(5)そもそも古い家に質素に暮らしていますから、いろいろと不具合が出てきます。

それでも今年の夏は、東京の猛暑を避けることが出来て、有難みを痛感しました。

3.室内は薪ストーブで暖まります。

(1)東京での期日前投票を終えて、衆議院選挙の当日と以後数日を山奥で過ごしました。「自公の過半数割れ」の報道も茅野でフォローしました。

 

(2) 当地の新聞テレビは、地元長野の状況を詳しく伝えます。

長野県は5つの選挙区ですが、小選挙区の当選者は立憲3,自民2。

比例はそれぞれ1人ずつ当選し、合わせて4対3の結果でした。

 

(3)我が家のある茅野市や隣村の原村や諏訪・塩尻岡谷市などは、長野4区になります。

長野4区の小選挙区は、自民党共産党との二人だけでした。結果は、自民党75.7千票。共産50千票。

(4)因みに、比例代表の党派別投票数を見ると、

(全国)では、1位自民(1458万)、2位立憲(1156万)、3位国民、以下公明、維新、れいわと続き、共産は7位です。

(長野県)は、1位立憲(266千票)、2位自民(234千票)、3位国民、4位公明と続き、共産は5位。

(うち長野4区だけを見ると)1位自民 2位立憲 3位国民、そして共産が4位につけます。

 

(5)長野の場合、共産の支持層が全国比多い。それでも4区で、比例1位の自民と4位の共産の二人だけが小選挙区を争ったのは、珍しいというか、連立を組まない限り、共産の勝利は初めから無理ではないか、と感じました。

今年最後の茅野に行きました。

  1. 10月の末は、今年最後の茅野滞在でした

(1) 事情があって短期間でしたが、高原の静かな秋を楽しみました。

今年は、八ヶ岳の冠雪も紅葉も例年より遅く、天気もいまいちでした。

(2)昨年もほぼ同じ時期に滞在したのですが、その時は紅葉の盛り。

昨年と今年の写真を並べて載せますが、景色が違います。

  1. 短い間にやることはいろいろありました。

(1)地元のススーパーに行きました。

青果売り場の主役は野菜から果物に変わりました。

(2)お昼の開店直後に、馴染みの寿司屋に顔を出して「元気だったら来年もお世話になります」と挨拶。

(3)庭の手入れや屋根の枯葉の掃除をやってくれる庭師池田さんの、今年最後の仕事も見学。頼りになる人です。

(4)親切な「家の修理屋さん」伊東さんとも、今年最後の打ち合わせ。

今年は、ネズミの侵入とハチの巣に悩まされました。ネズミの侵入を防ぐべく、雨戸の修理をしてもらいました。

それでも完全ではなく、いまでもどこからか入ってきます。私どもは「居間に入らなければ、ある程度仕方ない」と共生する覚悟なのですが、伊東さんは職人としての意地があって、「95%は侵入する穴を見つけて手を打った。何とか100%にしたい」と悔しがっています。この点は来年に持ち越しとなりました。

(5)そもそも古い家に質素に暮らしていますから、いろいろと不具合が出てきます。

それでも今年の夏は、東京の猛暑を避けることが出来て、有難みを痛感しました。

(写真5-池田さん5740)(写真6デスクトップ-伊東さん5349)

3.室内は薪ストーブで暖まります。

(1)東京での期日前投票を終えて、衆議院選挙の当日と以後数日を山奥で過ごしました。「自公の過半数割れ」の報道も茅野でフォローしました。

 

(2) 当地の新聞テレビは、地元長野の状況を詳しく伝えます。

長野県は5つの選挙区ですが、小選挙区の当選者は立憲3,自民2。

比例はそれぞれが1人ずつ当選し、合わせて4対3の結果でした。

 

(3)我が家のある茅野市や隣村の原村や諏訪・塩尻岡谷市などは、長野4区になります。

長野4区の小選挙区は、自民党共産党との二人だけでした。結果は、自民党75.7千票。共産50千票。

(写真7-ストーブ5732)

(4)因みに、比例代表の党派別投票数を見ると、

(全国)では、1位自民(1458万)、2位立憲(1156万)、3位国民、以下公明、維新、れいわと続き、共産は7位です。

(長野県)は、1位立憲(266千票)、2位自民(234千票)、3位国民、4位公明と続き、共産は5位。

(うち長野4区だけを見ると)1位自民 2位立憲 3位国民、そして共産が公明を抜いて4位につけます。

 

(5)長野の場合、共産の支持層が全国比多い。それでも4区で、比例1位の自民と4位の共産の二人だけが小選挙区を争ったのは、珍しいというか、連立を組まない限り、共産の勝利は初めから無理ではないか、と感じました。

人に会う日々

  1. 凌ぎやすくなった東京で、どんな暮らしをしているかと言うと、

(1)東大キャンパスの銀杏並木道を歩き、カフェで憩います。

(2)昔の職場や学校時代の仲間に会い、孫息子や長女夫婦と夕食をともにします。

(3)スマホを買い替えたので、下北沢のAUショップを訪れて、一から教えて貰います。

(いまだに、文字入力が出来ません)。

(4)読書会に参加してお喋りをします

(5)たまには、某大病院の臨床委員会外部委員の一人として会議に顔を出します(知らない世界の話で勉強になります)。

  1. まず、社会人3年目の孫息子と3人で夕食を楽しみ、IT時代の若者の日々につい

て聞きました。





(1) 「仕事はパソコン(PC)と業務用スマホを併用。個人生活はもっぱら私用スマホを駆使する」。使い分けが出来ている。

(例えば、業務では電子メール、私用ではLINE)。

 

(2) 仕事は、「パワーポイント」や「スラック」を使って、ビジュアルかつ合議型で進める場合が多い。「稟議書」などの文書作成はしない。「ワード」は使わない。

(3)「僕より年下の「生まれた時からのデジタル世代」は、AIも積極的に活用して、どっぷりITの世界に浸っている」。

(4)「ついて行けない人もいるのではないか?」と訊いたところ、「年上の上司には苦労している人もいる」という答えでした。

 

  1. 他方で、先週は、昔の職場で一緒だった女性と5年振りに会い、昼食をともにしました。彼女が今年傘寿を迎えたお祝いです。

(1) 彼女とは、仕事でたいへんお世話になりました。

銀行の合併を機に50歳ちょっとで早期退職し、あとは根津の小さなマンションでひとり暮らし。そんな日々を送れるのも銀行から頂く年金のお陰、と感謝していました。

 

(2) 私のお茶の先生でもあります。この日、六本木の国際文化会館にも和服姿で来られました。

退職後は、同僚の男性二人と時々お宅にお邪魔して、美味しく点てて頂きました。

その二人も体調の問題があり、会う機会がなくなり、今回は声を掛けませんでした。

 

(3) 話は当然に懐かしい思い出話が中心です。忙しかったけど、自由で、いい職場

だった、女性も働きやすかった、と繰り返していました。

(4) 85歳と80歳の男女二人が、秋の午後のひとときを、昔話で3時間を過ごす。

こんな時間が可能になるのも、かつて一緒に働いた職場の「文化」のお陰かもしれません。

(5)六本木のバス停まで歩いて帰りながら、小林秀雄の言葉を思い出しました。

―「思い出が、僕等を一種の動物であることから救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう」

(「無常という事」から)。

今年のノーベル平和賞は日本被団協へ

1.10月12日(土)、夏の間さぼっていた墓参が出来ました。長男夫婦の車に乗せてもらい、一緒に行きました。

  草が伸びたお墓の周りを掃除し、10月だというのに暑い日で、蚊に刺されて閉口しました。

 前日の11日、日本被団協ノーベル平和賞が決まり、墓参の日の朝刊には「核廃絶を訴え続け、被爆証言を世界に示した」運動が大きく報道されました。

 墓前で亡き両親に報告をしました。

  1.  「日本被団協」という名前を初めて聞いた方が多いかもしれません。

(1) 正式名称は「日本原水爆被害者団体協議会」。被爆者による唯一の全国組織で、各地に下部組織があります。

(2)東京の下部組織は東友会という名称ですが、私もささやかな会費と寄付で応援しています。

 

3.ノルウェーノーベル賞委員会の授賞理由は以下の通りです。

「広島・長崎の原爆から生き残った人たちの草の根の運動体が、今年の平和賞の受賞者である。

日本被団協と多くの被爆者は長年に亘って、核兵器のない世界を目指して努力し、核兵器が二度と使われてはならないことを生存者の証言を通して示してきた。彼らの並外れた努力は「核のタブー」を構築することに多大の貢献をした」

4.委員会は、「プレス・リリース」を発表し、HPに掲載されています。

今回は、その内容を以下に要約して終わります。

 

(1) 1945年8月の原爆投下の悲劇を生き延びた生存者は、ボランティアの組織を作

り、苦しみや不幸や偏見にめげずに自らの悲惨な体験を証言し、核の恐ろしさを訴え、核廃絶を願う活動を長い間続けてきた。

その過程で、核兵器の使用は道徳的に容認できないという強力な国際規範「核の

タブー」が徐々に形成されていった。

(2) 戦後80年近く核兵器が戦いの場で使われなかったという勇気づけられる事実があり、このことに日本被団協被爆者は貢献した。

(3) いま、この「核のタブー」が圧力を受けていることを深く憂慮する。

核兵器は最も破壊的な兵器であることを思い起こそう。それはますます強力になり、核戦争は我々の文明を破壊するのだ。

(4) いつの日か、歴史の証人としての「被爆者」は私たちの前からいなくなる。

しかし、日本の新しい世代は彼らの経験とメッセージを受け継ぎ、世界の人々を勇気づけ、教育し、人類の平和な未来の前提条件である「核のタブー」の維持に貢献している。

(5) それは「献身的な個人が世界に変化をもたらす」という創設者アルフレッド・ノーベルの信念と適合するものである。

日本被団協へ平和賞を授与する決定は、ノーベルの願いにしっかり結びついている。

 

『菩提樹(リンデンバウム)の花咲く国で』を読む

  1. 茅野で、田舎家の本棚にあった古い本を再読しました。著者は張さつきさん。1981年に未来社から出版した『菩提樹(リンデンバウム)の花咲く国でー一主婦、ドイツに生きる』。

  1. 彼女は妻の親しい友人です。父上は木村素衛といい、教育哲学が専門の元京大教授ですが、若くして死別し、少女時代を苦労して育ちました。

学者と結婚しましたが、ポスドク(博士号取得後に任期制の職に就いている研究者) の就職は厳しく、1971年から主にドイツ南部のシュツットガルトで暮らしました。

大阪大教授の職が見つかり、帰国したのは5年半後の1976年でした。

  1. 本書の帯には以下の紹介があります。

「異郷の地西ドイツで、物理学者の夫とともに二人の幼な子を抱えて暮らした一主婦の悪銭苦闘の生活記録。

 夫の就職問題・子どもの教育・言葉の障害・規則づくめ・価値観の相違にとまどい傷つきながらも、厚い友情を育て合い、美しい自然に心うたれる日日を活写する」。

 

  1. 私であれば、日本の企業から派遣されての海外勤務でした。

(1) しかし張さんの場合、日本での職が見つかるまでは、退路を断っての海外生活にな

りました。「他国で自分の力の限り働き、報酬を引き出す生活が始まった」のです。

 

(2) 不安と苦労も多かったでしょう。

その一方で、この地を深く知るという点では、良い経験だったでしょう。そのせいか、50年も昔の出来事ですが、いま読んでも読み応えがあります。

  1. 日本を発ったのは夫婦ともに30歳のとき、

(1) 「人間はみな同じなのだから、言葉ができなくてもなんとかなるさと、若さだけを頼りに」ドイツに飛び込んだが、さまざまな出来事を通して、文化や価値観の違いを認め合うことが、人間同士どんなに大切なことか徐々に理解していきます。

(2)そして、ドイツ人の考え方に戸惑います。

 彼らは「猛烈に親切でいい人が多いのだが、「ドイツ式は一番」という思いが強く、「正しい」とう言葉を頻繁に使う。

 些細なことにも理由や説明を必要とし、日本人は「どうして言わないことがわかり、書いてないことがわかるのだろう」と言われる。

(3)戸惑いつつも彼女は、必死で努力し、本音で話し合おうとします。その過程で友人もできます。

  1. 帰国が決まると、多くのドイツ人が別れを惜しんでくれた。

(1)別れにあたって彼女は述懐します。

「日本とドイツはまるで違う。私にとってのドイツは、やはり少々強すぎた。すすきや萩の花を眺めて、ボケーッと時間が過ぎていくのを目で追っているような私には、ドイツのすべてが少々強すぎる。

 だが、ドイツから私はなんとたくさんのことを学んできただろう。地味でよく働くドイツフラウからも。そしてあのたくさんの素晴らしい友人たち」。

 

(2)友人たちはその後何度も日本を訪れ、張さん夫婦も再訪しました。

本当に良い経験をし、良い思い出を作り、そして良い本を残してくれました。