政治への関心について

柳居子さん、遅くなりましたがコメント恐縮です。

やはり女性の年齢はまずいですかね。

そういえば家人は本日が誕生日で、来年の本日が大台でした。私が思っているより若かったと
いうことでお許しください。

直前の週末は好天で2人とも京都にいたので琵琶湖にある竹生島の宝巌寺(西国第30番札所)に行って
「家内安全」を祈願してきました。

仕事では秋学期が始まり、会議も多く、雑多な用で1日が終わり、同僚の役職者とぼやいたりぐちを
言ったりで過ごしております。



今朝の会議ではたまたま隣に座った某教授が「新政権は精力的に動いていますね。政権を取ったと思ったら
あれだけ動き出すというのは準備がしっかりしていますね」とコメントがあり・・・・専門の全く異なる先生には、
企業や実社会のスピード感は理解しにくいだろうなと思いました。

私は、具体的な政治の動きはあまりフォローしていませんが、こんな風に、若者を含めて、いままで無関心だった人たちの
関心度が高まるのは結構なことでしょうね。



それにしても、山のような過去の負の遺産に取り組まねばならないのだからたいへんですよね。

昨日の「選挙での1票の格差」をめぐる最高裁の判決の場合も、政権が変わったので安心して本音を出したという
裁判官の心理もあるのではないか・・・選挙制度の改革まで突き付けられて、課題山積・・・

「政治とは、情熱と判断力の2つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわじわっと穴をくり貫いていく作業である」・



上の引用はマックス・ヴェーバーの「職業としての政治」(脇 圭平訳)からで、
現実の動きを追いかける代わりに、90年も昔の古典を読み返したところです。

新しく「権力」を握った政治家に期待するとすれば、ヴェーバーのいう、政治的リアリズムを直視し
責任倫理」を果たすことにあるようです。



周知のように、本書は彼の1919年の講演をまとめたもので、訳書は岩波文庫の小冊子です。

訳書の解説がきわめて要を得ているので、以下は主として解説から、私自身の備忘録として引用しておきます。


1.ヴェーバーによれば、政治の本質的属性は権力であり、政治とは「権力の分け前にあずかり、
権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である」



2.しかし一切の「政治が権力――その背後には暴力が控えている――というきわめて特殊な手段を用いておこなわれて
いるという事実」は政治の実践者に対して特別な倫理的要求を課するはずである。

「政治家の活動には、不可避的な手段としての権力の追求がつきもの」→だから政治家は、自分の内部に巣くう、ごく
ありふれた、あまりにも人間的な敵(ごく卑俗な虚栄心)を不断に克服していかなければならない」



3.政治の手段が暴力であり、権力が一切の政治行動の原動力である以上、「信念」だけではすまされない。キリスト教
絶対倫理と相容れない政治の世界に身を投じた者が「魂の救い」まで期待することは許されない。目的と手段の緊張関係は、
ここでは他のどんな生活領域におけるよりも厳しい。善からは善のみが生じるといまだに信じている者がいるとすれば、
それこそ政治のイロハもわきまえない「政治的未熟児」である。



4.「政治にタッチする人間は、権力の中に身をひそめている悪魔の力と手を結ぶもの」である。・・・
可測・不可測の一切の結果に対する責任を一身に引き受け、政治の倫理がしょせん悪をなす倫理であることを痛切に感じながら・・・



5.自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が――自分の立場からみて――どんなに愚かであり 
卑俗であっても断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず(デンノッホ)!」と言い切る自信の
ある人間。そういう人間だけが、政治への「天職(ベルーフ)」をもつ ――こうヴェーバーは結んでいる。