タイム誌「1年経った日本」と「新しいコミュニティ」

1. 大震災の悲劇から1年経って、さまざまなメディアが様々な情報発信をしています。
私は、もっぱら海外のメディアを紹介していますが、それは言うまでもなく、内容が妥当か否かを問わず、複眼で見ることが大事だと考えるからです。


ということで今回は、タイム誌アジア版「1年後、日本の終わらない復興」3月12日号の紹介から始めます。

2. 全部で10ページのうち文章は1ページだけであとは全て写真です。
著者はマッキンゼー(米国の経営コンサル)の日本再生プロジェクトの責任者。

(1) あの大悲劇の際に、日本社会・日本人の「不屈の我慢強さ」と「団結心」が内外に賞賛されたことは記憶に新しい。
そこから復興への取り組みを通して、悲劇が日本再生のカタリスト(触媒)になるのではないかという期待も大きく膨らんだ。



(2) しかし1年経って、いちばん驚くべきことは、「何も変わっていない」ということではないか。
「新しい規範(norm)」は古い規範とほとんど同じにみえる。
秩序だった便利さや優れた技術・文化といった日本の強さも、
政治経済の貧困さといった弱さも双方ともに昔のままだし、
 日本社会に深く根ざした病根は、震災後も変わる兆しを見せていない。


(3) その病根とは3つ。
1つは、言うまでもなく「少子高齢化
2つは、依然として女性の社会参加が進まないこと
・・・・日本では大卒の女性の65%しか働いていないという統計がある。ゴールドマン・サックスの推計では、仮にこの数字が男性並みの80%に上がったら、8百2十万の労働力が生まれ、経済成長は15%アップする。
3番目は、若者の「内向き志向」
・ ・・・いまや、アメリカの大学ビジネススクールでも、シリコンヴァレーでも、見かけるのは中国人・韓国人・インド人などで、日本人の若者はほとんど目に見えない。大学卒業者の英語力の調査で日本はアジアの27国の最低である。


(4) もちろん、ボランティアの熱心な活動や寄付金・支援金の大きさや「節電」への協力や、日本人の集団としての団結力は、先進諸国の中でも際立っている。
しかし、それが、日本再生のビジョンに裏づけられた施策・変化・改革につながるかというと、疑問なしとしない。
なぜか?

(5) オーストラリア国立大学の某教授は以下のように語る。
「あの悲劇のあと、日本が“不死鳥”のように甦るのではないか、と言う意見と、これで日本は壊滅的な打撃を受けて立ち直れないのではないか、という2つの意見があった。

私は、そのどちらも極端な意見だと思う。
日本という国は、文学のジャンルで日本人がもっとも得意とする「随筆」のような国ではないか。
――筆の赴くままに、方向感なく・ランダムに、具体性を欠き、何を書きたいかのメッセージがあまり明確でない、それをよしとする国ではないだろうか・・・・・」


3. こういう意見を皆さんがどう思うか、分かりません。
反論もあるかもしれません。
私は、前回紹介した、『コミュニティを問いなおす』での広井良典千葉大教授の言説を思い出しました。


前回触れたように、同氏はこれからの日本社会のキーワードは「新しいコミュニティの構築」にあること。
そのためには、
・ 日常的な行動様式(あいさつ等々)の見直し
・ 各地域でのNPO社会起業家などの「新しいコミュニティ」づくりに向けた多様な活動
と並んで、3つ目に「普遍的な価値原理の構築」がポイントになる、と言います。

最後の点が分かりにくいと思いますので、今回の最後に補足して紹介します。

まず広井さんの認識は、いうまでもなく、「日本社会には普遍的な価値原理が不在である」という仮説から出発します。
だからこそ、その「構築」が必要である。この点を以下に、長くなりますが広井さん自身の言葉で補足します。


(1) 日本社会の特徴といえるのは、「自己」と「他者」の距離の遠さ、「ウチ」と「ソト」の断絶、そしてその「非対称性」の強さ(注1―つまり、ウチでは極端にべたべたし、ソトでは無関心)、といった社会のあり方ないし人と人との関係性である。

(2)ヨーロッパやアメリカなどの場合は、・・・そこでは個人と個人とを“つなぐ”ような、ある種の「普遍的な原理」が確かにあるのである。
ここで「普遍的な原理」と呼ぶのは、「集団を超えた規範原理」と呼んでもよいものだ(注2―こういう風に、自分が使う言葉を常に“自ら考え・定義”していくという姿勢が、何度も書きますがまことに大事です)。

日本社会には、確かに一定の「規範」のようなもの(注3−さきほどのタイム誌の執筆者がまさにnormという言葉を使ったこと、それが変わっていないと指摘していることに留意してください)が存在しないわけではないが、その大半は、「集団」の内部に完結するような性格のものである。(略)
それは「原理」とか「普遍的なルール」といった性格のものではなく、まさに「空気」という言葉があてはまるような、集団内部の半ば暗黙の了解や行動様式である。

(3) と書いた上で、広井さんは、
(A)物事の対応や解決が、主として「個々の場面での関係や調整」によってなされるような社会と
(B) 主として「普遍的なルールないし原理・原則」によってなされるような社会
の2つを対比して、


どちらの社会が、より「自由」だろうか?
あるいは、より「窮屈」と感じられる社会だろうか?と問いかけます。
そして、一見、(A)のほうが「より窮屈でなく」「より自由な」社会にみえるが、決してそうではない、と論じます。

(A) とは、「明示的な禁止」や「言語化されたルール」はむしろ少ないのだが、個々の微細な調整が累積した「空気」が重く存在し、それによって身動きがとれなくなるような社会のあり方である。


そして言うまでもなく、日本社会が潜在的に常にこういう方向に傾きやすい社会であることは確かである。
だからこそ「普遍的な原理の構築」が大切なのである。


(4) それなら、どういう「普遍的な価値原理」が作れるのか?
もちろん広井さんは新書の制約もあって詳しくは触れていません。
ただ言えることは以下の2点
1つは、「思想と哲学がどんなに大事か」ということ。
2つ目は「その場合の核になる規範原理は“有限性”と“多様性”ではないか」ということ。

全く同感・賛同するものです。

4. 最後に、私が広井さんの言葉を読み返しながら、考えていたのは、被災地のことです。

1年経って、そこでは復興の遅々たる歩みが報告・懸念されています。
そしてその1つの理由として、「地域のコミュニティ」が崩壊したという悲劇があるといわれています。

いま、被災地では、経済的・物理的・精神的な復興をどのように進めていくか、とともに、
「新しいコミュニティ」を築けるか?
が大きな・困難な課題としてのしかかっているのだろうと思います。

私ごときが、僭越なことを言う資格はとてもないのですが、
「地域のコミュニティ」が崩壊してしまったからこそ、
「普遍的な価値原理、規範原理に支えられた新しいコミュニティ」をみんなで考えようではないか!
と強く思うものです。