これからまだ何を?何冊読めるか?

1. 柳居子さん、加藤さん、有難うございます。
「漢字遊び」のアナログ感がとてもいいですね。辞書と紙と鉛筆があれば楽しめ
ますね。
百人一首も昔話で盛り上がります。
職場の昔の仲間からメールがあり、「祖父は、板のかるたに百人一首
書き、娘(母)に
一組ずつ持たせてくれたそうです」とありました
愛情の伝わってくるいい話しだと思いました。


ご指摘のように、「多世代」が集り・交わるのがポイントで、老若男女が、
「真剣に・対等に遊ぶ」、この構えが大事と思います。文化の伝承であり、
横のネットワークです。
馬鹿馬鹿しいと誰も思わず、「真面目に遊ぶ」・・・大げさに言えば、
生き方につながってくるような気がします。


2. 正月は「みんなで遊ぶ」と同時に「ゆっくり本を読む」時間とも
思います。
もちろん現役をほとんど引退した私の場合、読む時間には苦労しませんが、
それでも、正月のように世間もゆっくりしているときはこちらも落ち着いて
読書が出来ます。


そして、この年になると、
「限られた時間に、あと何冊読めるか?何を読むか?」
が大きな問題になります。

たまたま以下のブログでも同じような課題に触れています。
http://mytopgun.exblog.jp/17172884/


ただ、これがなかなか難しい。
毎年、年初から年に3〜4回、「読むべき本のリスト」を作るのですが、
決してその通りに行かない。
今回はそんな話題を取上げます。


3. 例えばいまの私にとって優先度の高い読書を分類すると以下の通り
です。
(1) ここ10年弱「研究課題」として大学に報告していた(個人研究費を
申請するために必要)「社会起業家」「ソーシャルビジネス」関連――
例えば、ロバート・パトナムの『孤独なボウリング』

(2) 世田谷市民大学のゼミは今年も続くので、福澤諭吉とその「関連」

――実は、この「関連」というのが曲者で、福澤自身の著作からどんどん
広がってしまう。大上段に言えば「日本の近代」ということで、もちろん
丸山真男に拡がるし、福澤の愛弟子だった馬場辰猪についての萩原延寿の著書がいま私の机の上に乗っている。

(3) 米英の社会と歴史、および日米関係に関するもの。
―――これも、私の授業に「アメリカのビジネス」があるので
(今年で終わると思うが)、読み続けている。
『米欧回覧実記(現代語訳)』や
トックビルももういちど精読せねばと思っているが、硬い本は少なく、例えば、デビッド・ハルバースタムが黄金期の
アメリプロ野球の大リーガーについて書いた「チームメイト(The Teammates))」も乗っている。

(4) 英米の小説(主として)ミステリー
――これは純粋に娯楽だけれど、私の中で、おそらくいちばん楽しい読書の
時間である。


(5) その他もろもろ


4. そして、最後の「その他」が実に「もろもろ」です。


(1) 例えば、私ごときであっても年に数冊、著書を送って下さる方が
居られる。
プロの作家であれば膨大な量となり、まず無理だろうが、もちろん私には
可能なので、「決めた読書リスト」には入っていないが、有難く、最優先に
読むようにしている。
出来れば、ささやかな読後感を付して、お送りするように心がけている。

(2)昔読んだ本の再読――例えば、スタンダールの『パルムの僧院』や
トーマスマン、『戦争と平和』『モンテ・クリスト伯』などの何れも邦訳を、
熱中した時代を思い出しながら読み返したい。


(3)いちばん問題なのは、つまり「その他」が更に拡がるのは、「決めた本」を読んでいるうちに、
思いもかけない読書に(再読も含めて)向かってしまうということです。


5. 例えば、正月に
丸山真男リベラリストの肖像』(苅部直岩波新書)を興味深く読みました。

これは、福澤→丸山・・・とつながり、そういえば丸山さん自身の著作
は読んだが、彼に触れた本も1冊ぐらいは読もうと「決めた」もので、
上記の3の(2)から外れていません。


ところが、
読んでいるうち、『丸山真男回顧談』上下(岩波)を書棚から引っ張り出して
チェックしたい気持ちになります。
丸山さんのエピソードがいろいろ紹介されるので、本人がどう言っていたかな?と調べたくなるものです。


まあ、これは大した「道草」ではありませんが、もっと「大道草」は、大昔に
読んだ庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』まで拡がってしまうということです。

苅部さんの本は、特に、序章「思想の運命」と終章「封印は花やかに」が、
短いけれど実に面白いのですが、(いちばん感銘を受けたのは終章の前の第5章
ですが)
終章に、『赤頭巾ちゃん気をつけて』で、丸山真男をモデルにした、
東大法学部で「すごい思想史の講義をしている教授」として大山先生が
出てきて薫君が会話を交わすという部分が引用されます。


『赤頭巾ちゃん〜』は昭和44(1969)年の芥川賞受賞ですから、私はその
ときに間違いなく読んでいる(2年半のニューヨーク研修生から帰国した
ばかりでした)。
しかし、「大山先生」についての記述(というより、内容のほとんど
全てを)忘れてしまっている。

となると、私としては、『赤頭巾ちゃん〜』をもう一度読んでみるしか
ないのです。


幸いに引用は中公文庫の33ページにあり、最初の方なので安心しましたが、
それでもついつい終わりまで再読してしまう。
そして、その日は、庄司薫について、当時の時代と雰囲気について、
いまの若い人も読むのだろうか?どう思うだろうか?

というようなことを考えてしまうのです。


だから、残された時間が限られて「読みたい・読むべき本」は山のように
机に乗っているのに、「道草」で手間取ってしまい、「読むべき本」の
リストは一向に減らないのです。



6.最後に、長く・長くなりますが、『丸山真男リベラリストの肖像』で
引用している「薫君の独白」の、そのまた一部を書き抜いておきます。
著者が、ここを引用したくなった気持ちを、私なりに慮りながら・・・・


・・・・たとえばぼくは・・・知性というものは、すごく自由でしなやかで、
どこまでもどこまでものびやかに豊かに広がっていくもので、そしてとんだり
はねたり突進したり立ちどまったり、でも結局はなにか大きな大きな
やさしさみたいなもの、そしてそのやさしさを支える限りない強さみたい
なものを目指していくものじゃないか、といったことを漠然と感じたり
考えたりしていたのだけれど・・・・・・「ほんとうにこうやってダベって
いるのは楽しいですね」なんて言っていつまでも楽しそうに話し続けられる
その素晴らしい先生を見ながら、ぼくは・・・ぼくのその考え方が正しいのだ
ということを、なんというかそれこそ目の前が明るくなるような思いで
感じとったのだ。