「入りてしまらく」の続きと「言葉を一掃する」

1. 我善坊さん早速再び有難うございます。
「奥深い問題」についての長文のコメントのおかげ様でだいぶ頭の中が整理ができました。
(1) ”近代社会は、「大切なことはアマチュアが良識によって判断し、細部の実行はプロの専門知識に委ねる」という考えで成り立っている。だから官僚はプロでも政治家はアマチュアであるべきで、その政治家を選ぶ市民は一層のアマでなければならない”―――なるほど。
(2) 他方でFBの木全さんから「着眼大局、着手小局」という言葉と「考えるときはアマチュアで、実行はプロと両方の役割を同時に持つことが大切だと思う」というコメントがあり、この発想も(1)に似ていて面白いと思いました。
(3) オルテガの著書『大衆の反逆』については過去のブログに書いたことがありますが、イシグロの『日の名残り』に出てくる執事のスティーブンスは生粋の保守主義者でしょう。こういう人物はいまの英国にも居るでしょうし、「大衆という存在(もちろん私自身を含めて)」への、ある種の違和感・不信感は多少理解できるような気もします。


2. ところで、このブログは1週間に1度を目途にしているのですが、今回は2日続けてになりました。早速コメントを頂いたことと明日から4泊で京都に行くのでその前に書いておこうと思った次第です。
そう言えば、前回、私ももう「生業」はないと書きましたが、まだほんの少し残っていて京都の古巣の大学で学生に会ってきます(今年が最後です)。
先週から猛暑を避けて信州のボロ屋に老妻と来ており、茅野から京都に行きます。

人に会うより、鹿を見かけることが多い山奥で、静かな日々です。
テレビもありますが殆ど見ず(昨日で終わりましたがたまに大相撲中継と天気予報ぐらい)、従って都会で何が起きているかフォローしておらず、老妻はもっぱら庭仕事、私は時に散歩する他は室内でPCと活字を追っています。
散歩すると、あたりには築40年のボロ屋とは天と地ほど違う、最近建った素適なお宅もあって、定住しているらしく、花々を咲かせて優雅に住んでおられます。感心しながら写真を撮ります

写真には電線の囲いが見えるかどうか。これは鹿よけに弱い電流を通しているので、放っておくと鹿どもが入り込んで大事にしている草花を食べてしまうのです。


3. 都会の空気を伝えてくれるように、東京からたまに手紙が転送されてきます。
その中の1つに、趣味で絵を描く友人からの便りが届きました。
彼の「入りてしまらく」という題の絵を観に行って、題の意味が分からず、ネット検索で、島木赤彦の
信濃路はいつ春にならん夕づく日、入りてしまらく黄なる空の色」
という短歌に出てくる言葉で、「しまらく」は「暫く」の古語と知り、
書棚にある島木赤彦の短歌集から、昔、信州のこのあたりの小学校の先生、校長をしていて小学校が今もすぐ近くに残っているということもブログに書きました。
http://d.hatena.ne.jp/ksen/20140617
友人の便りでは、やはり同じようにこの題名が分からない教え子(彼は今も女子大で教えています)が居て、やはりネットで検索したところ、この「「入りてしまらく」と信濃路の島木赤彦」という私のブログがトップの方にヒットして読むことができて参考になった、と連絡してきたそうです。
これにはちょっと驚きました。
私のブログなんてごく限られた友人が時々覗いてくれるだろうと思い、かつそれ以上の希望も興味もないし、ブログを書き終えてからは「入りてしまらく」をネット検索することもしなかったので、全く知りませんでした。
まあ、こんな程度の情報提供で、多少なりとも知らない人のお役に立っているのであれば、幸甚と言えましょう。
(写真―山)
4. ところで友人の絵の題名を、いい題名だなと思い、そのことやかねて絵の中味もともかく題名にも興味があること、中には、絵とどう結びつくのかさっぱり分からないのもあるね、と伝えました。
友人からの便りには、自分も題名にはこだわりと興味を持っている(よくぞ凝った題に気がついてくれた・・)という返事で、いろいろ情報を提供してくれましたので、最後にその点に触れたいと思います。
(1) 横尾忠則というプロの画家が書いた『絵画の向う側・ぼくの内側』という本の紹介です。
彼は自分の描いた絵に付けた、おそろしく長い題名を本の中で紹介していて、以下の通り信じられないぐらいの長さです。
曰く「三島由紀夫の最後の小説『豊穣の海』の三巻『暁の寺』を訪ねてバンコックに行った。この頃東京は雪だった。黄金の光のバンコックにいながら、もうひとりのぼくは東京にいた。そんなバイロケーションを描いた」
という題だそうです。


(2) そして、その後に続く横尾氏の皮肉たっぷりの文章が、私にはなかなか面白い。長いですが・・・
――「この絵は何を描いているのですか?」と聞く人がいるが、そんな人のためにわざわざこのような馬鹿馬鹿しい長ったらしい題名をつけてあげたのだ。 
 絵の観賞者もいつの間にか言葉(題名や批評)に依存して自分で感じとることをやめてしまっていることへの批評が、ぼくにこんな題名をつけさせたのである・・・・ぼくがこんなふうに説明的なタイトルをつけると、観賞者にとってはそれが全てで、それ以上の想像力を働かせようとしない。それほど観念的に物事を理解したがるのである。
 この間、東京芸大修士課程の生徒の絵を観に行った。絵の作者が自作の前に立って描かれて絵の説明をしてくれるのだが、その説明の長ったらしい観念的な言葉の羅列に思わず、「もういい、もういい」と言ってしまった。どうしてこんなに、絵に言葉を必要としなければならないのか、僕は唖然としてしまった・・・・
  絵を描くことは、頭から言葉を一掃することである・・・・」


(3) 以上の横尾氏の言葉、私にはけっこう重く響きました。
まずは、絵の題名に関心を持つ自らの性向に対する反省があります。

しかしそれだけではない。
彼は、絵に託して、何にでも(美しい物だろうが、最近多い悲惨な出来事だろうが)
すぐに言葉で解釈する、説明する、もっともらしく自分の意見を述べる、という風潮への疑問も投げかけているのではないか。
私たちは、「他人の言葉」に対して、その「力や効果」に対して安易に依存しすぎているのではないか。
映画「大いなる沈黙へ」という、終日、祈りと瞑想と労働に日を送り、言葉を最小限にしか使わない「修道士」という存在の映像を3時間見続けた影響もあるかもしれませんが、現代の私たちは(テレビという饒舌な存在が典型的なように)少し「喋りすぎ」ではないか。「他人の饒舌」を聞き過ぎではないか。
(絵だけでなく)横尾の言うように「言葉を一掃する」必要がないか。
他人の言葉が、私たち一人一人の想像力を奪ってしまうリスクを警戒しなければならない。
事物を事物として素直に、自分の内部の「沈黙」を大事にし自らの直感と知性と想像力で見続け・考え続けること。
あるいはそれが、「アマチュアであること」の意味かもしれません。