『逝きし世の面影』続き

我善坊さん、柳居子さん、さわやか中島さん、
皆様の長文かつ真面目なコメントにたいへん感激しております。
また我善坊さんは間違いのご指摘、有難うございます。
つい、自分のことに引き付けて「逝きし日」なんて書いてしまいたくなります。


今回は、京都からの帰りと、英国からの友人夫妻を蓼科高原に連れていく合間に書いておりますので、まずはお礼を述べるのにとどまることをお許しください。


1. 我善坊さん・・・・「近代に疲れた西欧人の目がみた日本」、「歴史の流れは進歩だけではない」そして、「近代化と漱石」といったテーマ、何れももう少しお話したいテーマですね。


2. たまたま、さわやかNさんがご自分のブログに本書を読んだ(どうも高価な本を買わせてしまったようで恐縮です)感想に「日本はまだ近代化されていないんじゃないか」と書いておられますが、これは我善坊さんの問題意識と期せずして同じになったように思われます。

3. 他方で、柳居子さんには、「京の朝食はイノダから」で短時間お会いし、ご親切にも「モースの写真集、百年前の日本」という豪華な本をお借りしました。博学だけでなく蔵書もなかなかのものですね。

明治の初め、通算で2年弱日本に住んだ、大森貝塚の発見で有名なエドワード・モースが撮った写真、これが郷里アメリカのセイラムの博物館の倉庫に眠っていたのを日本人有志の努力もあって陽の目をあびて、出版にこぎつけたもののようです。

貴重な写真を、これからゆっくり拝見するつもりですが、当時の京都円山公園の桜などをこの写真集からご紹介しておきます。

京都では、雑用を幾つかこなしましたが、22日はちょうど時代祭りの当日で、御池通りで少し見物しました。


これ、京都人の中には、「祇園祭葵祭と違って歴史も浅いし、所詮、仮装行列ではないか」と軽く見る人もいるそうですが、私個人としては、日本の過去や歴史に想いをはせるきっかけになるお祭りであればそれはそれで意味があるのではないかと考えています。

4.『逝きし世の面影』に話を戻すと、コメントを頂いたお3人のうち、我善坊さんと柳居子さんは、たいへん失礼ながら、私と年代が比較的近い。
対して、Nさんは、若い世代に属する。


そういう点で、若い世代が本書をどう受け取るかにはたいへん興味があります。


というのも、もちろん著者が強調しているように「日本近代が前代の文明の滅亡の上にうち立てられた」のだ、かっての文明は滅びたのだ、としても、しかし、まさにその「面影」は少なくとも戦前までは残っていたように思います。


私たちの世代であれば(ひょっとして我善坊さんも柳居子さんも)、明治生まれの祖父母や、父母や、あるいは、家にいたお手伝いさんや近所の人たちの暮らしや人間関係や所作・しぐさや言葉使い等々の中に、まだかすかながら残っていた前近代の姿・・・・が決して遠いものではなかった、と思うし、それはとても魅力ある、気品のある、懐かしい思い出でもあるのです。


おそらく、そういう経験を身をもってしていない次世代の人たちにとって、こういう日本・日本人はどう映るのだろうか、と興味を持っています。


4. 最後に、さわやかNさんの「フランダースの犬」の挿話を面白く読みましたが、私がふと思い出したのは、鯨墓のことです。

江戸時代、鯨を捕獲して漁師たちが、鯨のために墓を立てた、胎児には戒名をつけて弔ったということです。
http://member.hot-cha.tv/~htc09819/kujirahaka.html

私はこの地に行ったことはありませんが、鯨やイルカの捕獲を非難する西欧人には、こういう発想はあり得ないのはないでしょうか。


因みに、たまたま『逝きし世の面影』で、私と同じようなところに何かを感じている人がいるのだなあと思いながら以下の文章を読みました。


・・・その滅び去った文明は、犬猫や鳥類をペットとして飼育する文明だったのではない。彼らはペットではなく、人間と苦楽をともにする仲間であり、生をともにする同類だった(P.515)


もちろんペットを大事にする人たちには、そうせざるを得ない、そうしたい理由があるのだろうと思います。しかし正直いって、ペットとしてやけに大事にする(犬の美容院があったり・・・というような話を聞くと)風潮には若干の違和感をおぼえています。

まさに「フランダースの犬」の世界からどれだけ遠くなってしまったことでしょう。