京都の朝は、まずはイノダコーヒ

  1. 前回は京都に一泊した話でした。

(1)久しぶりに泊りがけの旅です。13年暮らした街だけに、この機会にお会いしたい方も多いのですが、滞在時間が限られます。

(2)フェイスブックを見て「会えずに残念」と言って頂く方も居られて有難く、こちらも同じ思いですが、忙しく活躍中の方々の時間を頂くのはどうしても気が引けます。

  1. そんな老人には、ホテルから歩いて5分のイノダコーヒの存在は有難いです。

ここに行けば会いたい方の多くにまとめてご挨拶ができるからです。

(1)常連の面々が朝早くから5番テーブルに座っておられます。

主の下前さんを始め、見知った方に挨拶し、妻ともども厚かましく仲間に入れて頂き、皆さんのお喋りに耳を傾けます。

(2)これだけで京都に居るなあという思いを強くします。

 この日は、岡村さんにお願いして、まだ開いていない旧舘にも入れて頂き、写真を撮りました。

(3)昔訪れた有名人の写真が飾ってあります。

谷崎潤一郎は京都で「現代語訳源氏物語」に取り組みつつ、時に散歩の途次、珈琲の味を楽しんだとか。吉村公三郎監督の映画「夜の河」(1956年)では、山本富士子上原謙が会う場面に使われました。

  1. (1)妻はこのあと先に帰京し、私ひとり夕方の電車までの時間を過ごしま

した。妻がキャリーバッグを引いて帰ってくれたので、私は肩にかける鞄だけになり、助かりました、高齢者の旅は短く、かつ軽装に限ります。

(2)三条通の、京都健康管理研究会のオフィスにもお邪魔しました。高齢者医療や介護を二つの課題の一つとして取り組んでいます。

理事長さんは、「若手への助成に加えて、高齢者がそれなりに、健康を自ら管理できるような情報発信、啓発できる財団として存在」したいという意欲を季刊誌の巻頭に述べておられます。

(3)そのあとは、同じ三条通京都文化博物館でやっている「紫式部源氏物語」の展示を見ました。

  1. お昼は藤野さんにお願いして、烏丸御池に近い蕎麦屋尾張屋本店」に行

きました。

昔、京都住まいのときは散歩がてら時々ひとりで訪れました。

構えがいかにも古いお蕎麦屋で、東京ではこういう雰囲気の店がほとんど無くなっているので、久しぶりに覗いてみたくなりました。

壁に「京都商工業創業年代番付」が貼ってあります。

創業の古い順番で、尾張屋は西の横綱です。寛政6年創業は西暦1465年、応仁の乱の前年というから驚きます。

 昼時を過ぎても観光客が大勢並んでいました。

  1. 二人で、お銚子とせいろを頂き「源氏物語」の話をしました。

(1) 藤野さんは、もちろん詳しいです。

文化博物館の展示を見てきたこと、「紫式部ゆかりのまち、うじには物語がある」と謳ったポスターが貼ってあったことを報告しました。

(2) 「うじ」は、13年勤務した場所です。大河ドラマ「光る君へ」の舞台としてこれから出てくるでしょうか?宇治が大いに注目されてほしいです。

(3)私は54帖の「物語」の中で「宇治十帖」をとくに好みます。そして、そう述べる研究者は少なくないようです。

 

京都祇園の料理屋に6人が集まりました。

 


  1. 先週木曜日(2月15日)、久しぶりに京都に出掛けて一泊しました。到着日は雨が降りましたが、暖かかでした。

  1. 宿は地下鉄「烏丸御池」近くの安宿ですが、どこに行くのも便利で、応対

も親切で気に入っています。

昔単身赴任したときに13年住んだ、柳馬場という通りに面したアパートも近iくです。

 到着早々、早速傘をさして散歩に出掛け、御池通から柳馬場を南に右折しました。

古いお店、丸平大木(人形店)や宮脇賣扇庵が健在なのを確かめ(京都人からは「当たり前や」と言われるでしょうが)、松井本館という和風旅館の真ん前にある、昔と変わらないアパートを眺めました。

 2ブロック下りて錦小路も歩きました。

 

3.京都に住む従妹夫妻がホテルまで来てくれて、積る話を交わしから、祇園「白梅」まで出掛けました。3組6人の久しぶりの夕食会で、従妹がアレンジしてくれました。

 もう一組は、もとの職場の同期生とその奥様です。長年パリに勤務していましたが、退職して帰国してから縁もゆかりもない京都を永住の地に選び、もう20年近く、仁和寺のそばの閑静なお住まいで暮らしています。

4.「白梅」は祇園新橋白川ほとりにあります。

(1)もとは江戸末期創業のお茶屋で、昭和24年に料理旅館に転業。

白川にかかる小さな石橋を渡って店に入ります。橋の両側に梅の古木があって、店名はここから来ています。

(2)白川を眺める部屋でゆっくりと食事を頂き、6人で他愛もないお喋りをしました。

(3)顔をだしてくれた女将の、「あたたかな雨どすなあ」という柔らかい京言葉を聞いて、例の吉井勇の歌、

「かにかくに 祇園はこひし寝(ぬ)るときも 枕のしたを水のながるる」

を思い出しました。

この店もやはりかつては吉井勇ごひいきだったそうです。

5.このところ加齢とともにすっかり出不精になって、とくに泊りがけの旅が億劫になりました。しかし、従妹の誘いに乗って思い切って京都まで出掛けてよかったなと思いました。

前回のブログに岡村さんがコメントしてくれたことを思い出しました。

6.前回、昔の職場の仲間と夫婦で、東京六本木の先輩のお宅に集まった報告をしました。

(1)こういう男女の集まりは良いですね、と岡村さんからコメントを頂きました。

(2)彼は祇園町の会長ですから、女将さん舞妓さんをはじめ、女性との付き合いは慣れています。

(3)しかし日本の男性は一般に、女性とくに連れ合いも交えての交遊はさほど多くないかもしれません。

私の職場は、海外勤務が多く、家族ぐるみで付き合い、助け合う機会が多かったです。

それと、自分の意見をはっきり言う奥様が多いように思います。この日もご夫婦のそれぞれが自分の意見を持っていて、ときにそれが異なり、昔の職場の雰囲気もこうだったなと懐かしく感じました。

(4)岡村さんはコメントの最後に、神戸の中華街に春節祭を見に行ったことに触れて、「年をとっても出来る限り外出は必要だと思いました」とも書いておられます。今回の京都で、私も本当にそうだと思いました。

京都祇園の料理屋に6人が集まりました。

  1. 先週木曜日(2月15日)、妻と二人、久しぶりに京都に出掛けて一泊しました。到着日は雨が降りましたが、暖かかでした。

  1. 宿は地下鉄「烏丸御池」近くの安宿ですが、どこに行くのも便利で、応対

も親切で気に入っています。

昔単身赴任したときに13年住んだ、柳馬場という通りに面したアパートも近くにあります。

この日も到着早々、早速傘をさして散歩に出掛け、御池通から柳馬場を南に右折しました。

古いお店、丸平大木(人形店)や宮脇賣扇庵が健在なのを確かめ(京都人からは「当たり前や」と言われるでしょうが)、松井本館という和風旅館の真ん前にある、昔と変わらないアパートを眺めました。

さらに2ブロック下りて錦小路も歩きました。

 

3.4時半には京都に住む従妹夫妻がホテルまで来てくれて、積る話を交わしから、祇園「白梅」まで出掛けました。

3組6人の久しぶりの夕食会で、従妹がアレンジしてくれました。

もう一組は、もと同じ職場の同期生とその奥様です。長年パリに勤務していましたが、退職して帰国してから縁もゆかりもない京都を永住の地に選び、もう20年近く、仁和寺のそばの閑静なお住まいで暮らしています。

(写真4-錦4547)

4.「白梅」は祇園新橋白川ほとりにあります。

(1)もとは江戸末期創業のお茶屋で、昭和24年に料理旅館に転業。

白川にかかる小さな石橋を渡って店に入ります。橋の両側に梅の古木があって、店名はここから来ています。

(2)白川を眺める部屋でゆっくりと食事を頂き、6人で他愛もないお喋りをしました。

(3)女将が顔をだしてくれましたが、「あたたかな雨どすなあ」という柔らかい京言葉を聞いて、例の吉井勇の歌、

「かにかくに 祇園はこひし寝(ぬ)るときも 枕のしたを水のながるる」

を思い出しました。

この店もやはりかつては吉井勇ごひいきだったそうです。

(写真5-4560白川)

5.このところ加齢とともにすっかり出不精になって、とくに泊りがけの旅が億劫になりました。しかし、従妹の誘いに乗って思い切って京都まで出掛けてよかったなと思いました。

前回のブログに岡村さんがコメントしてくれたことを思い出しました。

(写真6-白梅4559②)

6.前回、昔の職場の仲間と連れ合い同伴で、東京六本木の先輩のお宅に集まった報告をしました。

  • 岡村さんからこういう男女の集まりは良いですね、とコメントを頂きました。
  • 岡村さんは祇園町の会長で、根っからの祇園育ちですから、女将さん舞妓さんをはじめ、女性との付き合いは慣れています。
  • しかし日本の男性は一般に、女性とくに連れ合いも交えての交遊はさほど

多くないかもしれません。

私の昔の職場は、海外勤務が多く、家族ぐるみで付き合い、助け合う機会が多かったです。

それと、自分の意見をはっきり言う奥様が多いように思います。この日もご夫婦のそれぞれが自分の意見を持っていて、ときにそれが異なり、昔の職場の雰囲気もこうだったなと懐かしく感じました。

(写真7-4562貴実子)

(4)岡村さんはコメントの最後に、神戸の中華街に春節祭を見に行ったことに触れて、「年をとっても出来る限り外出は必要だと思いました」とも書いておられます。今回の京都で、私も本当にそうだと思いました。

「先発のエース不調のリリーフに~」

  1. 先週月曜日の東京は雪が午後から夜遅くまで降り積もり、夕方の交通が乱れました。

老人はこんな日に出るべきではないのですが、前からの予定で「サロン」と称して9人の男女が六本木の某氏邸に集まりました。

スーパーのお弁当で昼食のあと、厚かましくも私が「源氏物語」についてレジュメをもとに語り、あとは皆さんのお喋りです。

雪が舞ってきたので早めに切り上げましたが、それでも帰りのバスは相当遅れました。渋谷駅も早く帰宅する人が多いせいか、大混雑でした。

  1. メンバーは元職場の仲間とその連れ合いですが、多摩川の先からはるばる来た夫婦がいました。電車を乗り継いで2時間かけて何とか無事に帰宅したというメールが、翌朝届きました。

 雪の中の帰宅を心配したのは、奥様が緑内障で目が殆ど見えなくなり、この日も夫君の手を借りて来られたからです。それでもミセスもたいへん喜んで居られたようで、メールには「またの機会を楽しみにしています。遠くても駆けつけます」とありました。感心したのは、夫君が甲斐甲斐しく面倒をみていることです。家事も担当しているようです。

  1. 80歳を越えると、そろって元気な夫婦は減ってきます。某金融機関から送られて

きた資料によると、

・当然ながら「高齢になるほど介護のリスクが高まる」

・要介護・要支援認定者の割合は、「80~84歳」で約3.7人に1人、85歳以上になると約1.7人に1人、6割弱に跳ね上がる

・介護が必要になった原因は

 1位認知症、2位脳血管疾患、3位衰弱、4位骨折・転倒、これで7割弱です。

 

  1. そういえば、男女7人の親しい仲間でいつも食事会をやっているのですが、うち一

組のご夫婦の奥様が脳梗塞になりました。

幸い順調に回復されリハビリを頑張っておられますが、まだ車椅子です。

昨年12月夜の忘年会は彼らの自宅に近いところで、夫君が車椅子を押して出席され、食事中も隣の席で甲斐甲斐しく助けておられ、その姿に心打たれました。普段から明るい奥様ですがこの日も快活で、お二人のチームワークの賜物と感じました。

 車椅子の外出が日本でも徐々に可能になってきたようです。昔暮らした欧米の街ではごく普通の光景でした。

  1. もう一人、もと職場の同期だった某君です。もともと奥様が要介護の状況だったのですが、「今回、胸椎の圧迫骨折を起こした」との手紙を貰いました。

高齢もあって医者と相談して手術はやめたそうで、「主夫業プラス介護士業が重なって、24時間目が離せなくなりました」とあり、短歌が添えてあります。

――先発のエース不調のリリーフに 立たむ気負ひに 割烹着着るーー

彼は短歌の名手で、いろいろ大きな会で入選しています。

頑張ってほしいです。


6.この3人の友人の奥様への介護、私にはとてもできないなと感じ入っています。

雪の中を帰宅した友人のメールには、「二人の年よりを見ると皆さん席を譲ってくれるので、全部座れて楽でした」とありました。周りの親切も嬉しいですね。

世代交代は進んでいます

1.私事ながら、先週85歳の誕生日を迎えました。

東京の孫二人、英国の孫二人、それぞれの母親経由バースディ・カードが届きました。

2.英国のカードは大きくて写真と名前だけ。日本のカードは小さく、細かい字でいろいろ書いてあります。

東京の上の孫(たつや)は独身のサラリーマン、下(りえ)はすでに結婚して二人の

赤ん坊(私の曾孫)がいます。

元旦には皆が我が家に集まり、酒盛りをしました。

たつやはバースディ・カードにそのことを書いてきました。

「お正月は有難うございました。(赤ん坊を抱きあげようとして)お互いに泣かれてしまいましたね。またリベンジしましょう!私もそろそろ子供が欲しくなってきたかも・・・・?

その時はぜひ抱っこしてあげてください!・・・」

まだ結婚もしていないのに、「よく言うよ!」です。

3.父親(私の長男)は商社勤務で、20年以上昔、インドネシアジャカルタに赴任しました。当時5歳と3歳の孫も連れて行きました。

幼い孫たちはどんな思いで日本を発つのだろうと考えていたところ、出発する直前、母親(長男の妻)からメールが届きました。

 「子どもたちが話していた会話が聞こえてきたので再現します」とあり、以下の通りです。

--―たつや「インドネシアに行ったら、もう雄也くんに会えないんだよ、もうね、みーんなに会えないんだよ」

りえ「えっ!しょうちゃんやあきちゃんも?ともくんも?」

た「そう。外国ってわかる?・が・い・こ・く、って」

り「うん!がいこくってえいごをしゃべるところでしょ」

た「インドネシアに行くとまわりの人はみーんな外国の人なんだよ」

り「インドネシアに行くって、旅に出ること?」

た「・・・あのね。夏ってわかる?」

り「うん、あのお日さまきらきらの」

た「インドネシアはね、ずーーっと夏なんだよ。ずーっと、ずーっと暑いの。ほらね、日本は冬とか出てくるでしょ。でもね、インドネシアはずーっと暑いんだよ。外国だから・・・・」

り「お兄ちゃん、インドネシアに行くって、旅に出ること?」

た「うん」

り「じゃあ、どこに行くんだろう?」

――会話はここで終わったそうです。

5.私はその翌年、まだ独身だった長女と二人で、長男一家が暮らすジャカルタに2泊、

バリ島に2泊する機会がありました。

ジャカルタでは孫息子の通う日本人学校を訪問しました。

到着したのがちょうど休み時間で生徒たちに頼んだら、校歌を歌ってくれました。

三番まで歌い、「ああ我ら、ジャカルタに日本の子!」の最後のリフレインは私も加わりました。

妙な大人が現れたと同級生の印象に残ったらしく、後で「たつやのおもしろおじいさん今日は来ないの?」と言われたそうです。

私が60歳代初めの出来事。

あれから20年有余。幼かった孫は、いまは片やサラリーマン、片や母親として、少子高齢化の日本で頑張っています。世代交代は確実に進んでいます。

当方は誕生日を祝ってくれるのはひたすら面映ゆく、昔を懐かしむだけになりました。

あとらす49号と湯澤毅然氏の著書

1.前回のブログで岡村さんの海外一人旅エッセイを紹介しました。掲載している京都健康管理研究会の理事長さんから、「ネバーエンディングストーリーは今後も掲載されます。乞うご期待」というコメントを頂きました。楽しみです。

 

2.厚かましい話ですが、私の方も「あとらす」という雑誌49号に、昔、アメリカのニューハンプシャー州シュガーヒルという小さな町に旅した話を寄稿したばかりです。

3.ニューハンプシャー州アメリカの東北部、大統領選の予備選が23日実施されたところで、共和党トランプ候補がアイオワ州の党員集会に続いて、2回目の勝利を収めました。

これで「世界中で選挙の年」と言われる中でも最も注目を集めるアメリカの大統領選挙は、4年前の再対決、81歳民主党バイデンと77歳トランプの老人二人で争われる可能性が高まりました。他に人材がいないのかと嘆いている人は多いことでしょう。

 

3.ところで「あとらす」は、神田神保町にある西田書店という出版社が編集を担ってくれます。年2回の発刊で今年で25年続いています。私の友人も参加してくれて、嬉しいことです。

4.最新号の「あとらす」には、湯澤毅然(もくねん)という人の「許嫁(いいなずけ)」と題する短い物語も載っています。

 西田書店が昨年10月に刊行した「アンチテーゼ」という短編集の一篇です。この本の帯には「余命宣告から2年余。膨大な原稿を遺し著者は55歳で逝った。本書はその第1巻である」とあります。

5.本書の巻末には「湯澤家一同」からの「刊行に際して」と題する説明文があります。引用すると、

 

「(著者は)2021年3月末、突然末期がんと診断されました。

 抗がん剤治療を開始すると同時に、病気と闘いながら、念願だった執筆活動をスタートしました。

 激しい副作用で食事がとれない日々の中、憑かれたようにキーボードに向かい、小説、奇譚集、メルヘン、エッセイ、落語、昔話など、趣向を変えた全7巻を一気に書き上げましたが、創刊となる本作品「アンチテーゼ」の刊行を見ることなく、2023年8月17日55歳で永眠いたしました。

 その名の通り、毅然として余命を受け入れ、信念を曲げず、病と戦う一方、楽しみながらも凝縮した時間を全うし、「ストーリーが天から降りてきた」と満足そうに微笑んで旅立って逝きました」。

 毅然の時空を超えた摩訶不思議な玉手箱全7巻、順次刊行してまいります」。

6.一読して、こんな人生もあるのかと仰天しました。

 裏表紙の著者略歴には、卒業学校名と勤務先しか載っていません。構想は以前からあったにせよ、文章を発表したことが一度もなかった普通のサラリーマンが、死を宣告されてから執筆に没頭する。家族がそれを支え、生前間に合わなくとも、死後、全7巻を出版する。

 人は何のために生きるか、という素朴な問いを突き付けられます。

 と同時に、活字の本を出すことにはまだまだ意味があるのだとも考えました。

 第1巻の短編集『アンチテーゼ』は28篇の短編、それぞれに不思議な味わいがあります。

オスロで「戦争を知らない子供たち」を歌った岡村さん

  1. 今回は、岡村さんのエッセイの紹介です。

いつもコメントを頂く岡村さんは,京都の祇園で生まれ・育ち、町内会の会長さんです。

若い頃に海外一人旅をして、コメントにも度々旅の思い出に触れておられます。まとまって話を聞きたいなとかねて思っていたところ、この度拝読する機会がありました。

2.「青春旅の想い出手帳」と題して、公益財団京都健康管理研究会が発行している「健康塾通信」に、連載しておられます。

 

(1)この財団は、広く医学・医療の発展向上を目指した研究助成、医療相談事業、医療教育講座事業などに携わっています。理事長と岡村さんがともに、珈琲店「イノダ」の朝の常連で、そのご縁からエッセイを載せることになったようです。

 

(2)第1回の冒頭は、こんな文章で始まります。

五木寛之さんの「青年は荒野をめざす」を読んで、主人公北淳一郎青年のようにソ連を経由して、世界を目指したいと思ったのは1971年のことだった。(略)20キロ近くあるリュックに、家から出る時に舞妓から餞別に貰った蛇の目傘を寝袋に巻き付けて背負っていた」。

3.いままで3回の連載は、岡村青年が船でソ連に渡り、鉄道で北欧に入り、ノルウェーの最北端ノール・カップを目指すまでですが、とても面白いです。

(1)記録と写真をきちんと残していたのでしょう。旅の途中で出会った人たちや様々なエピソードが語られます。

(2)例えば、ストックホルムスウェーデン)の街で雨に出会った。早速、餞別の蛇の目傘をさして(恰好いい!)歩いた。雨宿りをしたら、先客の若い女性がいた。許可を貰って写真を撮った。

 

(3) ノルゥエーのオスロでは、公園に寝転んでいたらワイワイと騒いでいる。中に入って行って,側に置いてあったギターを勝手に抱えて(「戦争を知らない子供達」を)歌っていると、周りに人が集まってきた。

(4)ある時は、観光バスをヒッチハイクします。

スウェーデンで。北に向かうバスに乗ろうとしたら、一日一本でもう出てしまったと言われる。

1時間ほど座っていたら観光バスが見えた。走っていって事情を説明したら乗客が皆ニコニコと大声で、「乗れ、乗れ」と言ってくれた。

 車内ではいろんな質問と食べ物が回って来た。隣の娘さんに日本語で名前を書いてあげたら、私も私もと差し出された。マイクを向けられたので、斎太郎節を歌った。

4.見知らぬ土地で見知らぬ異国人に出会い、中には不愉快なこともあったようですが、それも貴重な旅の思い出だったでしょう。だいたいが皆とても親切だった。

 

5それにはもちろん時代があり、日本人が珍しい時代ではあった。

しかし岡村さんの人柄が大きかったでしょう。ギターを弾き、歌を唄い、自然に「一期一会」を実践していく姿勢と行動の魅力です。私は彼の2年前1960年代末にはニューヨークで暮らしましたが、とてもこんな風に周囲に溶け込んでいけませんでした。

6.彼がオスロで歌った曲をYoutubeで聴きました。1970年に公開されたそうですが、「戦争を知る子供」だった私は知りませんでした。何度も聴きました。いい歌です。

戦争を知らない子供たち(1970年万国博ホール実況版) (youtube.com)