わが家の猫と「独立自尊」と「修身要領」

1. お礼が遅くなりましたが十字峡さん、5月26日付けのコメントで老猫の死を悔やんで頂き、有難うございます。


たまたま中学・高校時代の友人から、4年前の同様の出来事を思い出したと、メールが来ました。
彼の「死んだ猫のことを書くと切りがないのですが・・・」という気持ちはよく分かります。
十字峡さんの場合も2匹の犬をめぐる思い出は切りがないだろうと存じます。
誰にでもある話でしょうが、ちょっとフォローします。


(1) 友人の場合と当方が似ていると思ったのはどちらも拾った猫だったということです。
わが家も、娘が会社の傍の倉庫に捨てられていた生まれたての子猫を拾ってきて、そのまま18年でした。娘が結婚してやはりアパートでは飼えず、そのままわが家に居つき、生涯、同類の友は持たず、ほとんどを私たち夫婦とだけ付き合いました。
血統の良い上等な猫をお店から買うという場合もあるでしょうが、拾ってしまったというケースも多いでしょうね。


(2) 動物は死に時が分かって、どこかに居なくなるという話をよく聞きます。
家内の友人にもそういうケースがあったそうです。
上記の友人の場合も、もと中小企業の経営者で、拾った猫を会社で飼っていたが、事業を終えた。
その後も事務所は借りたまま6年、猫好きのもと事務員の女性が
・ ・・・世話のため、朝晩の食事とベッドメーキングに朝夕2回通ってきました。
そして、猫も老いぼれ、私もさすがに事務所家賃の負担がとても重くなりました。
5月、「そろそろ事務所を閉鎖したい。猫が困ったね」と彼女と話をしました。傍の棚の上に猫が寝ていました。話を聞いていたのかもしれません。連休が明けるころ、彼女から電話が掛かってきて「ミー子が帰ってこない」と。よたよた歩きながらも顔を見せていた猫がそのまま居なくなり、いくら探しても近所に姿はなく、そのまま姿を消してしまいました・・・・

わが家の場合は、古い家を事情があって減築せざるを得ないことになり、間取りも減り、猫の新しい居場所をどこにしようか、やはり「困ったね」と夫婦で話しあっていた。それを聞いていた彼女が迷惑を掛けないように死んでいったのではないか、それと、きっといまの住み慣れた家のほうが好きだったのだろうと家人は信じています。
「ミー子ちゃんのようにどこかに行きたかったのかもしれません。でも、もうその力が無かったので私の見守る中で死にました」


(3) 私の場合であれば、死ぬ2日前から、そろそろ寝るので2階の部屋に行こうと彼女に声を掛けると、珍しく暫くじっと私の顔を見ていました。
二晩、そんな夜が続き、翌日、仕事で京都に行っている間に死にました。
たぶん別れの挨拶をしてくれたのだろうと信じています。
「お世話になりました。ちょっとお先に失礼します」と言ってくれたのかなと勝手に考えています。


2. 猫はマイペースだとはよく言われますが、この友人からも
「自分本位、身勝手、よく言って「独立自尊」・・・」と書いてきたのを面白く読みました。さすがに慶応義塾のOBです。

(1)「独立自尊」が福澤諭吉のもっとも大事にする「キーワード」であり、彼の戒名が「大観院独立自尊居士」であり、慶応義塾の「建学の精神」であることは以前のブログでも触れました。


(2)この言葉は1900年、福澤の死去の前年に発表された「修身要領」(以下「要領」)によってよく知られるようになりました。
5月某日、慶応三田キャンパス内の三田演説館にて、世田谷市民大学の「福澤を読む」ゼミの先生による「「修身要領」再考」と題する講演があり、これを聞いてきましたので以下簡単に記録します。

(3)「要領」は福澤が門下生をして、慶応義塾に学ぶ者の遵守すべき道徳規範(モラル・コード)として編纂したもの。
「福澤は、その普及活動に専念するために、慶応義塾を廃する意向まで示している。彼がそこまで考えた「要領」とは一体何であったのか、そして彼の意向を私たちはどのように受け止めたらよいのか?」が講演の趣旨になります。

(4)内容は前文のほか、
「第1条・・・・吾党の男女は、独立自尊の主義を以て修身処世の要領となし・・・」
「第2条 心身の独立を全うし、自らその身を尊重して、人たるの品位をはずかしめざるもの、これを独立自尊の人という」

「第29条 吾党の男女は・・・広くこれを社会一般に及ぼし、天下万衆とともにあい率いて、最大幸福の域に進むを期するものなり」


までの全29条に、「独立自尊」が実に18回登場します。

(5)当時の時代風潮は、度々の教育令の改正、10年前の教育勅語(1890年)など教育の保守主義国家主義の傾向が強まっていた。福澤の著作も使用教科書のリストから全て禁止された。
福澤は教育勅語への表立った批判は控えていたが、このような風潮への危機感(時代とともに慶応義塾存続への)を深めていた。 
「(要領は)独立自尊主義や男女の平等、夫婦倫理の尊重などを唱えるものであり、その普及運動が広く展開されたが、勅語に齟齬(そご)するものであるという厳しい批判も受けた」。


(6)最後に、初めて入った「三田演説館」について一言。
重要文化財。日本最初の演説会堂にて福澤の建造にかかる。
開館は明治8年、昭和22年修復。
「わが国で初めて演説が試みられたのは明治6年のことで、福澤先生を中心に門下生数名が西洋のスピーチ(演説)、ディベート(討論)の法を研究して創始したものであるそして翌7年6月第1回の演説会を開き、ついで建てられたのがこの演説会堂であった・・・」
とホームページにあります。