福澤諭吉のお墓と墓参

1. 柳居子さん愛犬への想いに触れたブログ紹介有難うございます。
私ども夫婦はとくにどちらでもないのですが、イヌ派とネコ派があるようですね。

逝ってしまった我が家の猫は家の裏で眠っていますが(もう土に帰ってしまったかもしれませんが)、私は、2週間ほど前に「福澤を読む」ゼミの先生・仲間と一緒に福澤諭吉の墓参をしましたので今回はその記録です。


福澤は1901年に66歳で逝去。生まれは1835年、明治維新が1868年、彼33歳のときですから、彼自身が言うようにまさに「一身にして2生」を体験した訳です。


2. 埋葬されたのは、品川区上大崎の常光寺でしたが、遺族の意向で1977年実に66年後に麻布山善福寺に改葬されました。

但し、葬儀は善福寺で行われ、当日は自宅から寺まで「2キロ足らずの道を、1万5千人の会葬者が徒歩して棺に従った」(小泉信三福沢諭吉』)そうです。


いま常光寺には慶応義塾が建てた「永眠の地」の碑と本人の胸像が残っています。
常光寺は生前、散歩の途次に気に入ったお寺で本人の意向で埋められたそうです。
その後、改葬されたのは福澤家の宗旨が浄土真宗なのに、ここが浄土宗のお寺だったという事情があるようですが、本人はどう思ったでしょうか。

お墓というのは、やはり残った遺族の意向や遺族・子孫のためのものなのだろうなという思いを強くしました。


3. 麻布山善福寺のお墓は立派なものです。
福澤諭吉と奥様のお墓であり、後方に母親のお墓があります、
彼は大阪の中津藩屋敷で生まれ、幼いときに父親が亡くなり、中津に戻りました。
その後、長崎で学び、大阪の適塾で学び、江戸に出ました。
23歳、大阪で学んでいるときに兄が病死、家督を継いだが、自らの意志と決断で大阪に戻り江戸に行き、中津に定住することはなかった。この動きには母親の理解も大きかった。彼はそういうことをセンチメンタルに触れる人間ではありませんが、「家督を継いだ人間が主君のために奉公せずに中津を去って、おまけに和蘭語を学ぶとはけしからん」という親戚の批判にも拘らず母親に話して理解と支援をもらって中津を去ったことについて「福翁自伝」にさりげなく触れています。
江戸に居て、咸臨丸に乗ってアメリカに行き、幕府の翻訳方に雇用され、結婚もし、のちの慶応義塾を開き、子供も生まれ、『西洋事情』がベストセラーになり(「その著者を一挙に日本でおそらく最も有名の著者にした」と小泉は書いている)、37歳の明治3年、母親を中津から呼び寄せる。6年にはその母が死去する。

このころ旧友に充てた手紙に福澤自身、以下のように書いています。
「活計は読書翻訳を渡世といたし、随分家庭も出来、富有の一事に至ては在官の大臣参議など羨むにたらず」

豊かになり・有名になって、最後に親孝行が出来たのだろうと思います。ただ、そのあたりの母への想いというようなことを一切言葉にしないのが、いかにも福澤です。


4. ただ、福澤は、口や言葉に出して、そういうことをあまり言わない。
福翁自伝」について前に触れたことがありますが、印象に残るのは、自分の先祖やルーツや出自について一切触れず、ほとんど関心がないように思える。
合理主義の人、今風に言えばクールな人、文明開化を主導し、独立自尊、徹底的に儒教的なものを批判した人というイメージが強いですが、
本人は、たいへん「律儀で、物堅い人」だった、「自身にたいする儒教の影響は抜きがたいものであって」、そこには1歳半で死に別れた父親の姿が道徳的支柱としてあったというのが小泉の解釈です。
以下、引用します。
「その言論上においてかく自我の発揚を力説した福沢は、その行動の実践においては身を持すること堅く、きわめて謹厳実直なる道徳実践者であった。

何人も福沢の父母と兄姉にたいする孝悌の行いの申し分なきを批評することはできない。またその私生活の清潔なること、公人としての進退の厳正なること、約諾を重んじていささかも変えなかったことを、争うことはできぬ」

他方で、内村鑑三のように
「(福澤によって)拝金宗は恥ずかしからざる宗教となれり・・・徳義は利益の方便としてのみ貴重なるに至れり。武士(さむらい)根性は、善となく悪となく、ことごとく愚弄排斥せられたり」という激しい批判もあります。

しかし、「争うことはできぬ」と、あの小泉信三(父・信吉が福澤の弟子で、本人も子供のころ接触したことがある)が言うのですから、信じるべきなのでしょう。

そうとすれば、その合理主義・功利主義的な信念と、いわば、古くからのモラルや生き方を守ることとはあい矛盾するものではない、ということでしょう。

5. お墓は福澤諭吉夫妻のもので、福澤家は多摩墓地だそうですが、管理はきちんとされているようで、
あるゼミ生(慶応OB)の話では前に墓参をしたときに、名刺受に名刺を入れたところ丁寧に礼状をもらったと言っていました。

隅の一角には、彼の家に住み込んで長く面倒をみた、下男・下女(こういう言葉はいまは差別用語でしょうか)の夫婦のお墓もあります。
この夫婦のことも福澤は触れていないと思いますが、
昔であれば、こういう人たちが献身的に、主人や家の世話、食事や子供の世話を見てくれたのだと思います。それだけに強い信頼と愛情で結ばれた家族の一員という意識を福澤が持ったかどうか、それともむしろ規律に沿った上下・主従関係という意識で臨んだのか、そこが分かりません。バランスのとれた両方であって欲しかったとは思います。

こういう人間関係はもう日本のどこにも無いでしょうし、所詮、主従と思うかもしれないけど、もちろん役割りはきちんとあり、上下のけじめもあるにせよ、それでも家によっては、本当に家族と変わりない、場合によって家族以上に大事な存在だったのだ、というような人間関係や文化は今の人には理解しにくいことでしょう。

そんな、「逝きし世」のことを思いました。

それにしても、これからお墓というのは、「個の時代・核家族の時代・都会化が進む時代・少子高齢化の時代」に、それぞれがどのように守り、どのように残っていくのでしょうか。