6月は病院、展覧会そして福沢諭吉の「帝室論」

1.今日で6月が終わり、今年も半分過ぎました。

f:id:ksen:20190530120429j:plain(1)この1ヶ月を振り返ると、年相応に病院行きがありました。友人の絵を観にいったりもしました。今回はそんな「散歩」の記録です。

まずは、友人の見舞いに武蔵小杉の病院に行きました。川崎の殺傷事件の直後で、死傷者が運ばれた病院の1つです。

友人は肝臓にがんができて手術したのですが、幸いに早期発見で転移もまったくなく、抗がん剤の必要もなく、切って終わりだったそうです。

(2)術後も順調で、当初2~3週間の入院と言われたが、10日で退院、その前日に見舞いに行きました。まずは不幸中の幸いと言えましょう。

話をいろいろ聞いて思ったのは、基礎体力が大事だろうということです。彼は中高時代は山岳部、大学では水泳部に属し、鍛えた体です。それだけに回復も早かったのでしょう。

(3)手術をするにも体力が要る。入院してまず2日間は検査。そこで手術に耐えられるかどうかを調べる。従って、80歳の高齢者の場合、医者から「手術しましょう」と言われたら、それだけでまず「合格」と考えてよい、という話でした。

私であれば、若いときに鍛えていない軟弱者なので、おそらく手術には耐えられないな、と改めて感じました。

(4)その私の方は、本郷の東大病院まで肺の定期健診に行き、3時間以上待たされ、それだけでくたびれて帰宅しました。久しぶりに赤門を眺め、三四郎池を散歩しました。

f:id:ksen:20190605141845j:plain2.友人の絵は、1つは六本木の国立新美術館の「日洋展」。

(1)彼が100号の大きなのを描いて入選したという案内を貰い、観に行きました。大作が600点ほど並んでいる大きな展覧会です。

友人の絵は「聖ビクトワール山の夕焼けと孫」と題して、南フランスのプロバンスにある山の景色。

行ったことはありませんが、セザンヌが何十枚もこの山の絵を描いたことで、よく知られます。平地にこれ1つだけ「馬の背のように延びる全長18キロの石灰岩の山で」(ウィキペディア)、高さ1011メートル、19メートルの高さの十字架も立っている由。

(2)絵の巧い下手は一向に分かりませんが、いい趣味だと羨ましいです。題名を見て、絵を眺めて、作者が描きたいと思った気持ちや体験や物語を想像したりすのが好きです。

例えば、女性の作品で、庭先に紫陽花の花がみえる室内に車いすが置いてある風景は、「かえらぬ日」と題されます。絵に登場しない人物は、母親と介護する娘でしょうか。母親はもう庭に出ることはできないが、車椅子から紫陽花を眺めるのが好きだった・・・・

f:id:ksen:20190605134315j:plain――「今年も咲いたわね」

「雨によく合う、梅雨時らしいしっとりした花ね」

そんな会話を交わした「かえらぬ日」を思い出している女性がいる。――

そんな想像をしました。

(3)海外を題材にした絵も多くあります。

友人の絵もその1つですが、「シェイクスピアの生家」「ブルージュ」「ベネチア回想」などなど、2割ぐらいが海外の風景でしょうか。一人一人の旅の思い出も感じながら眺めました。

ノートルダム寺院」もあり、もちろん4月15日の大火災の前の姿です。

そういえば、最新の「タイム誌」に、6月15日に火災以来初めてのミサが挙行されたという記事が写真とともに載っていました。大司教ほか神父さんが皆ヘルメットをかぶってのミサの写真です。

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(4)もう1人の友人の絵は、お寺の天井に描かれた日本画です。

世田谷の浄土宗のさるお寺が今般本堂を大々的に改装するにあたって、日本画の先生に全部で50枚ほどの天井画を依頼し、友人も弟子の1人として6枚の絵を描いたそうです。家人と一緒に見てきましたが、これまた立派なものです。

本堂も本尊の阿弥陀如来を始め、すべて新しく金ぴかになっていて、これにも驚きました。

いまどき豊かなお寺です。因みに、江利チエミという戦後すぐにジャズ歌手として活躍した人のお墓もあるそうで、銅像も立っていました。

f:id:ksen:20190618110509j:plain5.最後に、6月は学びの機会もそこそこありました。27日(木)には、慶応義塾大の

三田キャンパスに行き、演説館(重文)の前に立つ福沢諭吉の像に挨拶してから、福沢ゼミに参加しました。

今月のゼミは、「三田評論」5月号の特集「『帝室論』をめぐって」をテキストに先生とともに9人で話合いました。そこで、以下、福沢の『帝室論』の話です。

(1)福沢は日本の天皇制について、明治15(1882)年に『帝室論』、明治21年には『尊王論』を書きました。特に前者は、「近代日本における皇室のあり方、とりわけ象徴天皇制を考える上で少なからぬ影響があった」とされる論述です。

論旨は簡単に言えば、以下に尽きるでしょう。

・冒頭に「帝室は政治社外のものなり」(政治には関わらない)と直截に述べた。

・「一国の緩和力」という表現を使って、天皇が学問技芸といった文化の擁護者となるべきことを強調した。

・そのため必要なのは「資本、是なり」として英国などに比べて「帝室の私に属する土地もなし又山林もなし」として、この点を見直す必要を主張した。

(2)書いたのは明治憲法の制定前。彼は本書で大隈重信とともに英国流の「立憲君主制」を主張したが、結局、伊藤博文などを中心にプロイセン型の憲法が制定され、彼の主張は入れられなかった。

f:id:ksen:20190124132205j:plain(3)しかし、戦前でも昭和天皇は皇太子時代にヨーロッパを歴訪し、とくに英国のジョージ5世(エリザベス女王の祖父)に親しく応接し、英国流の「立憲君主制」を学んだ。しかし、軍国主義に突き進む日本は「神聖天皇制」の方向へと突き進んだ。昭和10年代には「慶応の学生向け副読本に本書が入っていたのが、検閲で時局にそぐわないとして削除を要求された」。

(4)「敗戦を経て憲法が変わり、戦後、本書が再び注目されるようになる。

昭和21(1946)年には、小泉信三(元慶応塾長)が皇太子(いまの上皇)の教育掛になり、福沢の『帝室論』を用い、ジョージ5世の伝記も一緒に読んだという。

小泉は「皇室が民主主義と矛盾しない、同居可能だということを語る根拠」を『帝室論』に求めていったと思う、と都倉慶応准教授は述べるし、楠上智大教授はこう書く。

「戦後、小泉が説いた象徴天皇の真髄を提供したのはもちろん福沢諭吉であるが、それを戦後の文脈に当てはめ、見事に紡ぎ直したのは小泉信三の功績である」。

6.ゼミでは、こういう評価について、戦前の福沢の思想と戦後の国民主権のもとでの象徴天皇制とを直線的に結び付けるのはやや短絡的すぎるのではないか、という意見も多く出ました。

しかし、いまの上皇の思考と行動とに、「帝室論」と英国流の立憲民主主義の思想とが影響を及ぼしている、そしてそれを教授したのが小泉信三であり、その基にあるのはジョージ5世の存在だった、という指摘は、納得できるように思います。

とすれば、そういう上皇の思考が、いまの新しい天皇に継承されていくだろうか?誰によってどういうチャネルで(いまは教育掛という存在はない)伝わるだろうか?というのは興味あるところです。

個人的には「皇室が民主主義と矛盾しない、同居可能だ」という、福沢諭吉小泉信三のチャネルで上皇に伝えられた思いが、新天皇にも継承されていってほしいと願います。しかしそれは、いまの右翼・日本会議そして自民党保守派の思想とは合わないのではないか・・・・。そんな懸念を皆で共有しながら、先生(前の福沢諭吉研究センター所長で慶応大教授)やゼミ仲間と話合ったことでした。