制』増補版(中公新書)を贈っていただき、このほど読み終えました。いま渋谷の丸善ジュンク堂に平積みになっています。
2006年に初版が出て5版を重ね、この4月25日に増補版が出ました。「院政とは何だったのか」という終章が加えられ、新たに人名索引が巻末におかれました。
新書本に索引があるのは珍しいですが、有難いです。とくに本書は、人名が無数に出てくる(藤原~だけで130人以上!)、しかも同じような名前が多いので、系図と索引で彼らの関係を何度も確かめながら読むことになります。
というわけで、私のような素人には決して読みやすい本ではありませんが、とても面白かったです。
最高の人事権である、天皇を決める「王の人事権」を完全に掌握することが必須であり、そのため直系の子や孫を天皇の地位につけた上皇が、その親権を行使して政治を行うのが院政で、単なる元天皇である上皇が院政を行えるわけではない。
(2)もともと上皇という称号は、7世紀末、持統天皇が孫の文武天皇に譲位したときに始まる。
(3)但し、11世紀末の白河院政に始まり、12世紀の鳥羽、後白河、13世紀の後鳥羽までが典型的な院政とされる。
(4)歴史的背景には、
・それ以前の摂関政治(「王の人事権」を、代々天皇の外戚となった藤原氏が実際上にぎる体制)からの変化
・院近臣と呼ばれる、実務能力にたけた中・下級貴族が存在感を強める
・寺社の存在と、彼らの強訴に対抗するための武士への依存と彼らの台頭、そして対決、
などがあげられ、保元・平治の乱(後白河)承久の乱(後鳥羽)後醍醐天皇の倒幕といった武士を巻き込んだ権力闘争を経て、院政そのものは江戸時代まで残るがまったく形骸化していく。「王の人事権」を武家政権が握る時代に移っていく。
(5) ということで、本書は、天皇制が変貌し、武家政権が成立していく出来事を「院政」という視点でとらえているところに面白さがあります。
- 著者は、(1)「院政は形骸化しつつも、意外に長く続いていく」。
(2)しかし、「(典型的な)院政とは平安末から南北朝期の日本にのみ存在した、きわめて特殊な天皇制のあり方である。まさに「もうひとつの天皇制」なのであった」と述べます。
(3)そして、「明治以降の近代天皇制においては、天皇の譲位ということ自体が行われなくなり、院政は歴史上消滅する」
(4)としたうえで、今回の明仁上皇から今上天皇への代替わりの意義について「あとがき」で以下のように述べます。
――院政といえば、マイナスイメージがあり、とくに明治から昭和戦前までの天皇制は親政を金科玉条のものとしてきた。
――戦後、昭和天皇が退位の意志を表明することもなかった。
――「ところが、父昭和天皇をもっとも近くから見てきた現上皇は、戦後の日本国憲法のもとでの天皇制を父よりも深く考えたように思える。にもかかわらず、このたびの譲位について識者の中には否定的な見解もあった。現在の憲法を逸脱するかたちで、天皇が譲位の意志を示されるということは、何らかの政治行為につながるのではないかというわけである。
しかし、実際はどうだったか。(略)上皇となると、国事行為はもちろんのこと、膨大な儀式と巡幸もとりやめたのである。それは、現在の天皇制のあるべき姿が戦後の憲法下にあることをはっきりと示し、それと矛盾なく譲位の意志を表明しうると天皇自ら体現したことに他ならない」。――
(5)こういう著者の指摘は、なるほどと、改めて今回の譲位の意味を再認識しました。
- 最後に、個人的に面白いと思っているのは、英国の王制との比較です。
「世界で退位しない王が2人いる。英国のエリザベス女王ともう1人は?」、
「答えはトランプの王様」というジョークがあるように、英国では自らの意志での譲位という慣習・事例はないのではないでしょうか。
このあたりを、ケンブリッジ大学で研究されたこともある美川教授に、機会があれば伺いたいものです。
もう1つ、後鳥羽上皇が仕掛けた承久の乱は1221年、そして英国ジョン王時代のマグナ・カルタ制定は1215年と、ほぼ同時期の出来事です。
しかし、方やマグナ・カルタは曲りなりにも「専制君主から国民の自由を守るための英国最初の憲法制定」という意義づけがなされる。
対して、承久の乱は所詮、天皇側と武士政権との権力闘争ではないのか?
この違いはどこから来るのか?素人の誤解もあるかもしれませんが、そんなことを考えています。