八ヶ岳農業実践大学校のこと、「あとらす」のこと

1. 前回のブログでは、組織社会と共存する社交社会の存在が大事だとする『社交する人間』(山崎正和)を紹介しました。
「社交」を成り立たせる理念(礼儀作法、感情の統御、共感、平等、自己表現、上下関係のない・つかず離れずの人間関係など)が文明の前提であり、現代はそれが衰弱しているのではないかという著者の問題意識です。


もちろん「社交」が成立するには理念だけではなく、皆が共有し、楽しめる、しかも贅沢ではない「仕掛け」が必要なので、それは田舎であれば、じゃがいもと会話があれば十分でしょう。

たしかにこの時期、野菜が豊富に手に入るのが有難く、我が家の食卓は殆ど連日、さまざまな野菜(だけ)が並びます。

我が家のジャガイモの他に、友人がなす・トマト・ズッキーニ・枝豆など作っていて
「食べ切れないから貰って」と大量に持参してくれます。

近くには、「八ヶ岳農業実践大学校」があって、ここで合宿している若者が作っている野菜やチーズなどを直売しています。


朝、8時半オープン直後に、家人と2人で出かけましたが、すでに取り立ての野菜が並んでいました。
朝2時に収穫したというセロリや、新玉ねぎなど、新鮮で安くて、おいしそうです。

八ヶ岳の見える大学校に、通常であれば1年間のコースを取って合宿して農業を学ぶ、朝早く起きて、牛や鶏の世話をしたり、野菜を作ったりする、そういう日本の若者が居るのだとあらためて感じます。


というような日々で、田舎に暮らしても、ゴルフの趣味もなく、観光にも興味なく、近くを散歩して、あとは本を読んだり、PCに向かったり、人に会ったりするぐらいで、代わり映えのない時間が過ぎます。
都会にいると、つい町中に出かけて、いろいろ散財することにもなりますが、引きこもりの時間が多いので、財布の中も一向に減りません。


2. 時には雑用があって、中央道を走る高速バスを使って東京に出ます。JRより安く、平日はさほど渋滞もなく、快適です。

先週は、慶應義塾大学の三田キャンパスでのゼミに参加するため、出かけました。

いつも早めにキャンパスに到着し、福沢諭吉の胸像に挨拶をしてから教室に入ります。

もともとは同大学の教授兼福沢諭吉研究センター所長のもとで福沢の著作を読みはじた仲間ですが、すでに5年目に入り月に1度、最近は、福沢とほぼ同時代の思想家の著述を読んでいます。ここ3カ月は徳冨蘇峰です。
総勢10名ほど、私にとってはこれも「社交」の1つなのですが、とくに60代の女性が熱心で(やはり慶應のOBが多い)よく勉強していて感心します。
田舎で野菜を作る若者と、明治の古い政治思想を読む高齢者と、日本も多様でいいことですね。


この日は、ゼミ仲間の1人の女性(慶応文学部卒)に「あとらす」という雑誌の34号を渡しました。
素人ばかりが作っている雑誌ですが、年に2回発行でもう15年以上続いています。
旧知の編集長に2年前から編集の手伝いを頼まれて、自分でも雑文を寄稿し、友人も誘いました。もっとも編集手伝いは口実で、酒を飲んでただ喋るという、これも「社交」です。

お陰で、34号には4人が参加してくれて、雑誌のレベルもだいぶ上がってきたと喜ばれています。
彼らも熱心に、文章を書いてくれて、「考えること・調べること・書くこと・発表すること・人に読んでもらい批評してもらうこと」の喜びを感じてくれているようで、嬉しく思っています。

友人の中には、仲間で絵を描いて展覧会を開いたり、歌を歌ったり、詩吟を披露したりする人たちがいます。
文章を載せ合う「場」も、それと似たような「社交社会」を成り立たせる「仕掛け」の1つとしての意味があるのではないでしょうか。
9月中旬には職場で一緒だった執筆者4人で合評会と称して、集まることになりました。


3. 私の今回の雑文は「ハリウッド映画回想」と題して、古いアメリカ映画と戦前、映画が好きだった母や、政治学者の丸山眞男が見た、フランク・キャプラ監督の『スミス氏都へ行く』や西部劇などの思い出を取り上げました。


題材としての古い映画は、好きな人も多いので、興味を持って読んだくれた人もいます。
中で、大学時代の友人の1人からは長いメールをくれて、自分の好きな映画についての「うんちく」をいろいろと披露してくれて面白かったそうです。
中でも、『第三の男』がいちばん好きて30回以上観ている、セリフを殆ど暗記している、等々書いてくれて、
「私あてのメールでは勿体ないから、「あとらす」に寄稿をお願いしたい」と依頼したところです。

彼は絵は長年学校に通って描いており、展覧会にも何度も入選しています。今度は文章に挑戦してくれると、嬉しいです。

どなたか、このブログを見て、「あとらす」への寄稿に興味を持ってくれる人いませんか?
誰でも参加できて、題材も長さも自由で、編集長はまことに良心的で、素人ばかりの雑誌にしてはきれいに作っています。

表紙の絵は、編集長と仲のいいプロの評論家の某氏が匿名で描いてくれました。これを色変わりで、毎月使っています。

「書くこと・表現すること・それを仲間内で読んで語り合うこと」を「社交の場」にして、参加者が喜んでくれればいいなと思います。
格好つけて言えば、17世紀のフランスのサロンみたいな「場」、それは平和な社会の土台にもなるのではないか。


因みに『社交する人間』によると、「社交が成立する条件として、人間の平等とそれを許容する平等主義が必要だ」として、
「17世紀フランスのサロンが身分的にいかに平等であったということは、その女主人のなかに侯爵夫人と並んで、高級娼婦の出身を隠さなかった女性がいたことからも明らかである」
と書いています。