1.8月に入り、老夫婦の茅野での田舎暮らしは1ヶ月となりました。やっと梅雨明け、青空が見えるようになりました。
この間、長野県では、しばらくゼロだった新規感染者がかなり増えました。ただ、茅野市はまだ安全で、とくに山奥は庭にりすはやって来ますが、人で「密」になることは全くないので、比較的気楽に近所に住む友人たちに会っています。
東京の方々には申し訳ありませんが、有難いことです。もちろんマスク着用、手洗い励行といった作法は守っています。
ただそんな環境なので、東京と違ってついマスクを忘れて外に出てしまうこともあります。先日は車で20分ほどのスーパーに買い物に出たところ、いつもは家人お手製のマスクを携帯しているのにその日は不注意で忘れたことに気づき、あわてました。幸いに入口の横に小さな薬局があり、助かりました。1枚ずつ売っていて、30円でした。東京も今は同じでしょうが、当地ではマスク不足の心配はありません。
2.それにしても当地でも誰もが、真面目にマスクをつけています。日本人は以前から普通にしていましたね。なぜか分かりませんが、マスク姿に違和感は感じないのでしょう。
これが欧米あたりでは大きな問題になっていて、トランプがつけるかどうか話題がになり、口論のあげくの殺人事件まで報道されています。
米タイム誌「孤独」特集の中のエッセイで、ある女性作家が(反対している訳ではないが)、違和感を書いていました。「たまに外に出ると、マスクで顔を覆った人たちの姿が、まるでシューリアル(超現実的)な光景だ。「眼は魂の窓だ」という言葉があるが、コロナのお陰で、これが間違いだと分かった。顔全体が見えるのがどれだけ大事か、魂は眼だけではなく人間の表情のすべてから窺えるものだ、とあらためて思った」とあります。
こういう感覚はやはり日本人とは少し違うのでしょうか?
3.当地での友人との出会いですが、3組6人の夫婦の昼食会が先週は二度ありました。
1度はお寿司屋の広い個室での昼食会。良心的な値段で、お一人様1450円のランチは、デザートと珈琲までついてなかなかいけます。もう1度は別の友人で、そのうちの一人のお宅に昼食持ちよりで集まり、少し距離をあけながら、久しぶりに社交を楽しみました。どちらも、ご夫人方が活発に会話に加わるのが特徴で、政治的・社会的な発言も賑やかです。
また、犬を連れて立ち寄ってくれる年下の友人ご夫妻もいます。4連休を利用してやってきた長女夫婦と一緒にご自宅によばれ、やはり3組6人(プラス愛犬)でお喋りをしました。もとの職場の同僚でニューヨークで一緒に働いたこともあり、住まいも近かったので、若い頃の思い出話でも盛り上がりました。
4.山崎正和の『社交する人間(ホモ・ソシアビリス)』(2003年)の記述を思い出しました。
本書は、「人間は社会的動物」とはよく言われるが、「社交的動物でもある」と、「社交」の意義を論じます。
――「この世で人が人に会うことの不思議さに感動し、1回ごとの邂逅(かいこう)を生涯の大事と考える「一期一会」の教えは、日本の「茶の湯」の中心的な思想だった。西洋でも18世紀の前半には、社交に文字通り命を賭けて、「虚礼」を実業以上に人生の義務として重んじる人が生きていた」。
そして、「社交を成立する条件として、人間の平等とそれを許容する平等主義が必要だ」とも指摘します。国家や企業の「タテ社会」を補完する人間関係として「横のネットワーク」の大切さと言ってもよいでしょう。それが相互扶助にもつながるでしょう。
5.コロナという伝染病の破壊力は、病原菌とともに、ソーシャル・ディスタンスを強いることで「横のネットワーク」も弱めようとしている。その脅威に対して、「社交的動物」としての存在を守らなければいけないのではないでしょうか。
比較的安全な場所ならば、予防と注意をしつつ、距離を保ちつつも、人に会い、短い会話でもいいから言葉を交わす。困っている人がいたら、買い物の手伝いを申しでたりする。物理的な接触が無理なら、電話でも手紙でもスカイプでもラインでも電子メールでもいいから、人とつながる。いままで以上にそんなことの大切さを感じています。
6.これもまだ4月初めでしたが、ニューヨークでコロナが猛威を振るっていたときに、病院の集中治療室に勤務する日本人医師のフェイスブックが話題になり、このブログでも紹介しました。
その中で彼は、患者が増えて地獄絵の様相を呈している状況を伝えるとともに、最後にこう書いていました。
――「この状況になったからこそ気づかされることが沢山ある。家族や友達と会ってお喋りしたりハグしたり、公園に行ったり、気軽にそうできることがどんなに幸せなことか。生きているって、それだけで本当に幸せなこと」
いまニューヨークの状況は、クオモ州知事のリーダーシップもあって、これを書いた時より少し良くなっているようで、彼も無事に家族や友人と会えているでしょう。
7.最後になりますが、同じニューヨークでの悲しい話も聞きました。
一昨日のこと、東京から移動してきたご夫婦と昼をともにする機会がありました。夫の方が家人の小学校の同級生で、たまたま夏に同じ茅野の山奥に滞在することがわかり、しかも彼が私の中高の2年後輩なこともわかり、以来親しくしています。
暫くぶりに会ったのですが、中高が一緒で親しかった彼の友人がコロナで死去したと聞いて、驚きました。それが4月、しかもニューヨークでのこと。死去した方はかねてニューヨークが大好きで退職後、東京と頻繁に往来していた、たまたま3月中旬もひとりで同地に出掛けたところ罹患してしまい、現地の病院で死去した。 東京から奥様が行くことは不可能で、家族に看取られることなく死去。遺骨もまだ日本に持ち帰れないという、まことに気の毒な状況です。
ただ、ニューヨークの教会関係者に知り合いがいて、教会のメンバーが献身的にボランティアで面倒をみてくれたそうです。また、病院も日本との連絡手段を講じてくれて、病室と東京の自宅との交信をスカイプを使って可能にしてくれた、そのためパソコンを通してではあるものの、最期まで何とかコミュニケ―ションをとることができた。
それまで、幸いにも私の周りでコロナに感染した人は聞いたことがなかっただけに、いままでやや遠い出来事だと思っていたコロナの残酷さを、急に身近に感じながら話を伺いました。