1. 藤野さん遅くなりましたが、スポーツ用語を教えていただき有難うございます。ラグビーファンと理解していましたが、他のスポーツもお詳しいですね。
藤野さんのようなスポーツファンが、例の新国立競技場をどう思っておられるか知りたいものです。
こちらは一庶民・一都民として、怒っています。日本国民は何とも大人しいですね。アメリカ人でも知っている日本語の「Shikataganai」ということでしょうか。
ことの本質は、決して自分のポケットを傷めずに他人のお金を遣う人たち、自分で食い扶持を稼ぐという意識が欠落している人たちがいかに無責任になりうるかを見せつけられたということでしょうね。なぜそれが許されるのか。
2. こんなことを書き連ねても不愉快になるだけですから、話題を変えましょう。
今週からまた老夫婦で田舎のボロ家に来ています。写真は、詩人の故草野心平の字で「また来たよ」。
10日(金)は日帰りで東京まで往復しましたが、しとしと雨から解放されてよく晴れました。
年に1回の中学・高校の同期会に出るのが用事の1つですが、約350人のうち3割近くは他界し、生き残りのうち出席者110人というから盛況なものです。6年続いた男子校ですからじいさんばかりです。
今年は、出席者に「昭和二十年前後の私の想い出」という文集が配られ、編集長から
「我々は、昭和20年終戦の年に国民学校(今の小学校)に入学した世代であり、
昭和26年に中学入学、32年に高校卒業、今年で喜寿を迎える。
小学校入学&終戦から70年経った今年、この時期の体験を記録としてまとめて子や孫に残すのも意義があるのではないかと考えて、同期生に呼びかけたところ77名から寄稿があったので、編集委員9名の尽力により、小冊子にまとめた」
という報告がありました。
編集後記には委員の1人が
「こんなに国の形と庶民の暮らしが短い間に激変した時代というのは過去の日本の歴史になかったのではないでしょうか?
食べるものに困る時代から何不自由ない飽食の時代に、我々は生きてきたのです。
編集しながら、子供の頃の戦争体験を後世に残すことは確かに意義あると確信しました。
戦争の無い平和な世の中が続くことを切に願う次第です」
と書いています。
3.編集長の某君はまた
「全ての原稿を最低3回は読み通しての感想は、
「親ほど有難いものはない」の一言です」
という「挨拶」でしめくくり、なんだか普段考えていなかった言葉を耳にして、不覚にもじーんとくるものがありました。
終戦時に6歳、戦争中の過酷な時代、自分一人ではとても生きていけない時期に、
親がいなかったら今の姿の自分はいないだろう、と感じながら文章をつづった多くの友人たちがいたことでしょう。
77人のそれぞれの体験の悲惨さには程度の差があります。
しかし誰もが、2度としたくないような戦中の経験をもっています。
空襲で自宅が焼けたり、疎開先の田舎の親せきの家で遠慮しながら暮らしたり、田舎の小学校で陰湿ないじめにあったり、ろくな食べ物もない中で幼い弟や妹を病気で亡くしたり、父親が出征で母親と子供たちで戦火におびえる日々を過ごしたり、さらには、満洲や台湾から必死の思いで引き揚げてきたり・・・・
ある友人はこんな恐怖の瞬間も書いています。
「父は兵隊にとられ・・・敗戦となり天津の町は騒然とし・・・
ある日突然ソ連兵が我が家に闖入してきた。女漁りと察した母はいち早く押入れの中に隠れた。ソ連兵2名は私を抱きすくめ「ママは、ママは?」と問いただす。恐怖のあまり私はただただ震えていた。しばらくして、彼らは家を出ていった」
その後、彼は母と2人の弟妹と着の身着のままで天津からキャンプ地を経て辛うじて帰国できました。運が良かったというべきでしょう。
孫に当てた手紙の形式で、その頃の思い出を書き綴った友人もいます。
3. しかし幸いに、寄稿した77人のうち父親を戦争で亡くした人は1人しかいません
その1人というのは実は私です。おまけに原爆の被災者というのも私1人。
だからといって、自分の経験を人より不幸だと絶対化するつもりはありません。
世の中にはもっともっと大きな不幸が山のように存在する、そのことに謙虚で有り続けること、自分の不幸なんか(例えば、昭和20年8月6日広島で、5人の子供を抱えて突然夫に死なれ生きていくすべを失い途方に暮れた女性に比較して)何ほどでもない。
さらに言えば、77人の寄稿者の他に、もっと不幸な体験をして、とても書けない、思い出したくないとして寄稿しなかった同期生もいるかもしれない。
実は私も似たような気持ちで、編集長からメールが届いたとき、とても協力する気持ちにはなれませんでした。
ただ、趣旨には意義を感じ、幸か不幸か、2年前に京都新聞の取材を受けて重い口を開いて、それを記者が記事にしてくれたことがあります、
その記事の転載でよければと返事をして、編集長は「是非に」と言ってくれて、載りました。自分で書いていない文章が載ったのも、これまた77人中私1人です。
この日、私も茅野に帰る夜汽車の中で、仲間の70年前の記憶の数々を読み通しました。
彼らにとっても自らの過去を振り返り、「親ほど有難いものはない」と痛感する良い機会になったことだろうと、編集長の挨拶の言葉をまた思い出しました。
4. 最後にちょっと母校の自慢話になりそうですが、
こういう企画を考えて、実行し、成功させる仲間がいるということ、
しかも、失礼を承知で言えば、彼らは決して、在学中から、例えば生徒会のリーダーといったような目立った存在ではない。
そういう、周りの仲間と少しも変わらない普通の連中が、いわば勝手に思いつき、言い出し、集まり、汗をかいて何かを仕上げる。
誰でも、手を上げれば、その趣旨が納得されれば、みながそれを暖かく見守り、応援し、可能なら自らもその企画に参加する、
中には関心のない人もいるだろうが、少なくとも足を引っ張る人はいない。
こういう学校の雰囲気って、ちょっといいんじゃない、と思う者です。