「キャッチャー」の著者の評伝『サリンジャー』と戦争の記憶

1. 藤野さん有難うございます。同じ意見を共有できる友がいることも、発信が増えている話も心強いです。権力から距離を置く京都人の心意気に期待しています。老人も頑張ります。
同期会の「文集」についてのコメントも嬉しく拝読しました。フェイスブックにも「体験されてきた事が、次の世代に正しく伝わる事を願ってやみません」とありました。いずれも有り難く読みました。

もっとも、私のような気の弱い人間は、自分のだけでなく、他人の辛い体験や出来事も苦手ではあります。
悲惨な事実を直視するには、強靭な精神が必要ではないか。


それにしても、他人を殺すことを強制される戦争まで受け入れることができるような強靭な精神が人間にあるとしたら、それは何なのだろうか。
人は、正義のため、祖国を守るためという信念から、或いは、やらなければ自分がやられるという恐怖心から、引き金を引くのだろうか。

2.そんなことを考えたのは、たまたま茅野市の図書館で借りた、5月に邦訳が出たばかりの『サリンジャー』(ディヴィッド・シールズ&シェーン・サレルノ著、角川書店)を読んだからです。
評伝で700頁以上のJ.D.サリンジャーの長い評伝で4200円もしますが、引き込まれて読みました。
代表作『キャッチャー・イン・ザ・ライ(以下「キャッチャー」)』の愛読者は少なくはないと思いますが、著者の生涯にまで関心を持つ人が茅野にもいるのだろうか、こんな地味な本が地方都市の小さな図書館にあるのをちょっと不思議に思いました。


「キャッチャー」の原書は1951年に出て、邦訳は長く野崎孝訳の「ライ麦畑でつかまえて」(白水社)で知られ、200万部以上売れているそうですが、2003年には村上春樹訳が出たのでさらに読者は広がっているでしょう。
いままでに世界中で65百万部以上、今でも毎年50万部以上が売れる由。推定では一巻本として史上11番目に売れた本というから驚きます。


サリンジャーは2010年に死去しましたが、1919年NYマンハッタンのユダヤ人を父に生まれ豊かな家庭に育ちました。
「キャッチャー」はウィキペディアの紹介によるとこんな小説です。

――大戦後間もなくのアメリカを舞台に、主人公のホールデン・コールフィールドが3校目に当たるボーディングスクールを成績不振で退学させられたことをきっかけに寮を飛び出し、実家に帰るまでニューヨークを放浪する3日間の話。
自身の落ちこぼれ意識や疎外感に苛まれる主人公が、妹に問い詰められて語った夢、<自分は、広いライ麦畑で遊んでいる子どもたちが、気付かずに崖っぷちから落ちそうになったときに、捕まえてあげるような、そんな人間になりたい>が作品の主題――。

私事ですが、野崎訳が出たのが1964年で徐々に日本でも話題になったようで、ちょうど私はその直後にNYで暮らすようになり、弟から手紙で教えてもらい、ペーパーバックを読みました。NYのセントラルパークがホールデンの回想の中にたびたび出てきて、よく散歩する場所でもあり、読んでいて臨場感がありました。以来ハードブックも買い、何度も読んでいる愛読書です。

3.本書の「キャッチャー」に関する記述を紹介しますと、
(1)私たちの誰もが、・・・とりわけ青春期には、修復できないほどに壊れていると感じていて、みな癒しを必要としている。
「キャッチャー」はその癒しを与えてくれているのだ。ただし、かすかに、である。・・・言葉では言い表せないどこか深いレベルで、自分が治癒されたことを感じるのだ。

(2)ホールデンは、彼のような誰かが現れるのを切実に待ち望んでいた世代のための反逆者だった。
時はアイゼンハワーの50年代だったのだ。戦争に疲れ果てた国が、戦争に戻っていった。・・・国が要求したのは従順だった。下院非米活動委員会とマッカーシーが反対意見を封じ、社会は個人主義を窒息させた。
そこに、同調することを望まない少年について書かれたこの小説が現れたのだ。

(3)「ただぶらぶら歩く時にも持っていく、はじめの本になったのを覚えているよ」とある映画俳優は回想する。「ただ持っていたかったんだ」。

(4)「キャッチャー」によって、社会はホールデンを知っている人と知らない人とに分割されたように見えた。知っている人には、説明は不要だった。知らない人には、説明は不可能だった・・・


4.本書はまた、
「キャッチャー」は、戦争や兵士を直接取り上げてはいないが、「戦争小説である」という批評を紹介します。
サリンジャーは第2次世界大戦に出征し、ヨーロッパ戦線で凄惨な体験を重ね、生き残ったものの、精神を病みました。
―その間、「キャッチャー」原稿の最初の6章をノルマンディーのビーチ(1944年6月6日に連合軍によって行われた上陸作戦。サリンジャーも戦友の屍を越えて上陸した)に持っていき、ヒュルトゲンの森(44年9月から45年2月、ドイツ国内で米軍による最も長く・最も無益で愚かな戦いと言われる)にも持ち込み、強制収容所にいた間ももちつづけ、精神科病棟にも持ち込んだ。

戦争の間中、それは、もはや支えきれないような日々にもずっと彼の精神を支え、耐え切れないような日々にもずっと彼の心を耐えさせた。それは、彼と「崖っぷち」のあいだに立っていたのである―

そして、「それが出版されて一躍、超有名人になったとき、彼はPTSD心的外傷後ストレス障害)をかかえる退役軍人だった」。


そして、それからの人生最後の55年間、名声からもマスコミからも著名人の世界からも一切縁を切り、映画化の話も全て拒絶し、ケネディ大統領夫人からのホワイトハウスへの招待も断り、ニュハンプシャーの田舎家に引き籠り、2メートルの高さの塀をつくり、市井の人たちや女性とは交遊しつつも、救済を求めてインド神秘主義の哲学にのめり込む世捨て人の日々を過ごしました。

その全ての背後に、兵士としての残虐な戦争体験がある、と本書は語ります。
NYで生まれ育った・繊細で文学好きの青年が、ロンマティックな夢を抱いて自ら志願した戦争で、限りなく仲間と敵が殺戮される現実に直面し、いかに悲惨なものか、いかに自らの精神を壊したか・・・
について本書は、ときに目を覆うような戦時の、あるいはユダヤ人虐殺の、凄惨な写真とともに語ります。サリンジャヤーのような天才でなくても、おかしくなるのではないか。

「本書は」と冒頭で、著者は語ります。
第二次世界大戦で死を免れながらも、ついぞその生還を手放しで喜ぶことのなかった一人の兵士かつ作家の物語であり、戦争の終わりにユダヤ人であるとはどういうことであるかを知った、ユダヤ人ハーフの物語である。そしてまた、壊れた兵士と傷を負った魂が、芸術を通して20世紀の象徴(アイコン)へと形を変え、その後信仰を通してその芸術を破壊する過程を追った調査記録である」

これを読んで、「あなたが、少し早く生まれて徴兵にあっていたらと思うと・・・・」と家人がたびたび口にするのを思い出しました。