『1941決意なき開戦』(堀田江理、人文書院)を読む

1. 当地も秋めいてきました。稲が実り、蕎麦の花も満開です。
そろそろ山を下りる予定で身の回りを整理しつつ、読書も続けています。


今回は読み終えたばかりの『1941決意なき開戦、現代日本の起源』(堀田江理、人文書院、2016年)についてです。なかなかの力作です。

この本は友人が送ってくれました。友人の友人が著者の父親で、もと某銀行の副頭取、祖父は頭取だったというバンカーの家系です。
本人は、米プリンスストン大を卒業後、英オックスフォード大で博士号を取得した気鋭の政治学者です。


2. 本書は、もともと2013年末にアメリカで英語で出版され、その後、著者自身が日本語に翻訳したという点に特徴があります。
「あとがき」によると、

――なぜ日本は、圧倒的な国力の差を知りながら、アメリカならびに連合国との戦争を始めたのか。誰が、どのような理由で、いわゆる「捨て鉢の戦争」、「勝ち目のない戦争」に、日本を導いたのか。
・・・本書は、1941年4月から12月までの日本の政策決定プロセスを追いながら、これらの根本的な疑問に迫る試みとして書かれた――

そして、なぜそのような本を書くことになったかの「大本の動機」は、20年も昔の高校時代にあるとして、以下のエピソードを語ります。


――アメリカの高校に編入したばかりで、英語も拙い私に、歴史の授業中、クラスメートが悪意なく発した質問は、まさに「なぜあなたは私たちを真珠湾で攻撃したのか?(Why did you attack us at Pearl Harbor?)」というものだった。
とっさのことに何も言葉が返せない焦りとともに、当時の私を襲ったのは、たとえそれが日本語でされた質問でも答えられなかったであろうという、自分自身の知識や意見不足に対する幻滅だった。
 思えば本書は、何よりも、その17歳の自分に発せられた直球型の質問に対する、やっと出てきた答えなのかもしれない・・・・

 この「質問」を忘れず、研究者として真摯に追いかけ続けた著者の姿勢に敬意を表する次第です。


3. 日米の一次資料と二次資料を丹念に追いかけて著者が達した結論は、目新し
いものではありません。当然ながら、為政者やメディアに厳しいものです。
アメリカの読者に向けて書かれたという経緯は無視できないものの、大方の日本人にとっても(超右翼の人たちを除いては)、以下のような結論には頷くのではないでしょうか。


「1941年の4月から12月にかけて、軍部、民間を含む日本の指導者たちは、一連の決定を下した。
それらの多くは開戦に向けて、運命の経路を形作っているという認識のされぬままに、なし崩し的に合意されたものだった。しかし、ひとつ、またひとつの決断が決断を重ねているうちに、日本政府の身動きできる余地が確実に失われていった。
 そもそも西洋との勝ち目のない戦争は絶対的必然ではなかった。(略)
ギャンブラーよろしく、思いっ切りの大胆さで始めた戦争だった・・・」(P.367)


この1節を読んで、何と愚かな「博打のような」戦争を始めたことかと75年経った今も無念の思いに駆られるのは、私だけでしょうか。


しかも著書は、「あとがき」で以下のように補足します。
―――1941年開戦前夜における政策決定にまつわる諸問題は、我々にとって他人事ではなく、敗戦を経ても克服することのできなかった、この国が継承し続ける負の遺産とも言えるだろう。
(略)
より多くの人々に影響を及ぼす決断を下す立場の指導層で、当事者意識や責任意識が著しく欠如する様相は、あまりにも75年以上前のそれと酷似している。――

そして著者は、以下のように「負の遺産」を説明することで本文を終えます。

「冷戦以来、主流の保守政治家のほとんどは、そのように曖昧な歴史観(注、指導者の開戦決定責任が十分に検討されることなく、「1億総ざんげ」という言葉で薄められたこと)を、批判の精神なく、継承してきた。
皮肉にも、昔日の敵アメリカによる冷戦重視の現状維持政策が、それを可能にしたのだ。(略)だが、この問題があまり直視されてこなかった一因には、すでに荷風真珠湾前夜に鋭く観察した「元来日本人には理想なく強きものに従い、その日その日を気楽に送ることを第一とするなり」という、大勢による政治的無関心がある・・・」(P.376)。


4. 永井荷風の引用は、岩波文庫の「摘録、断腸亭日乗」下巻の1941年6月15日の記述です。彼はこの頃、克明に日記をつけ、戦争に向けて突き進んでいく日本を嘆き、批判の言葉をひそかに残しました。
昔読んだこの本を書棚から出して拡げてみました。この記述、私も印象に残ったとみえて、赤線を引いてありました。

著者は、永井荷風の「断腸亭日乗」を、おかしくなっていく社会全般にあって正常な日本人もいたという証しとしてたびたび引用します。

文末の「索引」をみると全文376頁のうち永井荷風が引用されるのは26頁、日本人では9番目に多いです。
ちなみに、どういう人物が多く登場するか、「索引」から調べると以下の通りです。
1位―近衛文麿166頁
2位―東條英機86頁
3位―松岡洋右84頁
4位―野村吉三郎78頁(開戦当時の駐米大使)
5位―来栖三郎42頁(野村を補佐するために派遣された特使)
6位―永野修身38頁(開戦時の軍令部総長海軍大臣A級戦犯として東京裁判途中に病死)
7位―杉山 元30頁(開戦時の参謀総長、9月12日拳銃自決)
8位―及川古志郎27頁(第2次、3次近衛内閣の海軍大臣
その次に、政治家・軍人・官僚を除いて、初めて文人永井荷風が来ます。
日本人以外では、当時の米大統領ルーズベルトが95 頁、次がグルー駐日大使で40頁、この2人が断トツです。

日本人8人の中で6人に対する著者の目は、当然ながらまことに厳しい。
残った2人、野村・来栖両氏の、和平に向けての最後の最後までの必死の努力(相手はルーズベルトとハル国務長官)に、著者が多くの頁を割いていて心に残りますが、最後にほんの少し引用します。


―――「1941年11月7日、真珠湾攻撃が決行された日、この2人は、国を代表する外交官として、想像を絶する屈辱にさらされた。結果として(彼らは事情を知らされぬまま)「戦いに勝つのに都合のよい様に外交をやってくれ」とした永野総長の言葉そのままに(略)時間かせぎをしたのだった」――

――来栖の妻はアメリカ人、戦争開始後、交換船で帰国。「ひとり息子の良は、工学の道を選んだ。・・・シカゴ生まれの、イギリス系アメリカ人の血を半分受けた帝国陸軍のエンジニアパイロットは、1945年2月、父の外交手腕だけでは避けることのできなかった戦争の犠牲となり、若くして命を落とした――」。