日本占領とマッカーサーと山下・本間両将軍

蓼科高原はコスモスが盛りです。稲穂も黄金色で一部は刈り入れが終わりました。

1、 柳居子さん、お礼が遅くなりましたが、コメント有難うございます。
「有る」と「負う」が天皇制の大きなキーワードという指摘は面白いですね。
その意味でも現憲法の「象徴天皇制」という位置付は「有る」に特化しているところが魅力かもしれません。
資料によると、GHQ憲法草案に当たってのマッカーサー・ノート(三原則)には当初「元首」と書かれてあった。それを民政局次長のケーディス大佐(ハーヴァード・ロー・スクールを出たニューディール政策にも関わった人物)が削除した由にて、彼のインタビューによると
「元首(head)ではイギリスのような儀式上の君主というよりは、天皇が依然として支配者としての絶対的特権を持っている、と私は考えました」と語ったそうです
(『日本国憲法誕生、知られざる舞台裏』(塩田純、NHK出版、2008)による著者自身のインタビューから)


2.天皇制の話はこの辺で切り上げて今回は、もう1回、マッカーサー(M)について取りあげます。


(1)彼について、軍人としても行政官としても高い評価があることは前回増田弘東洋英和大教授の『マッカーサー』(中公新書)から引用しました。


(2)今回は、主としてウィリアム・マンチェスターの書いた伝記によります。
・彼の祖父はスコットランドからの移民で南北戦争で戦い、父親も軍人です。
・本人は陸軍士官学校(ウエスト・ポイント)を史上最優秀の成績で入学し、卒業したという秀才です。
・彼の優れた点に、「勇気」「決断」「「威望」「知性」「統率」「信念」等をあげる人は多いです。

(3)それだけに、「自負心が強い・誇り高い」「独断専行する」「内向的でやや神経質」つまり、人に親切な、いわゆる日本人の好きな“親分タイプ”の人物ではなかったのでしょう。
共和党支持者でときの大統領トルーマンとは合わなかった。
Mはご承知の通り、朝鮮戦争をめぐる政策、日本の再軍備を狙うアメリカ政府の政策変更の軋轢(あつれき)からトルーマンによって突如解任されます。
増田氏はこう書きます
「Mにとって不運だったことは、彼が終戦時には予想もしなかった米ソ冷戦が発生したことと、それに伴ってワシントンが変身したこと。
(略)彼はこの変身ぶりに憤慨し、「新憲法に矛盾する」「日本再軍備は不要である」等、」ことごとく本国政府に盾突いたのである・・・」

この点は、戦後の日米関係において歴史の幕開けとでも言うべき出来事で、それがずっと尾を引いて今の安部首相の「憲法改正は歴史的使命」という発言にもつながっている、だから今Mについて振り返ることの意味はあるだろう、と思うのです・


3.Mについて私がもっと興味があるのは
彼が何より「禁欲的・自制的な人間だった」という指摘と、彼にとっての敵将、山下奉文本間雅晴両将軍の処刑問題です。


前者についてマンチェスターの記述によりますと
(1) GHQに居て、Mは実によく働いた。
週末を含めて週7日(正月もクリスマスも)、夜遅くまで働いた。趣味は読書と時に大使館で映画を観るぐらいだった。
副官や秘書を置かず、スピーチ・ライターを雇わず、全て自分で原稿を書き、文書にも目を通し、コメントした。

食事も粗末でいつも同じ、サラダとスープとコーヒーだけが多かった。
当時の国鉄が用意した専用車両も使わず、普段の移動にもボディ・ガードを付けな
かった。

(2) 休暇も取らず、観光旅行もせず、最高司令官としての5年間働きづめで、東京を離れたのは2回だけ、それも公務であった。
アメリカには1度も帰らなかった。
勝利に導いた最高司令官として欧州戦線を指揮したアイゼンハワーは帰国して歓迎会や歓迎パレードに臨んだ。
Mも「対日戦勝記念日に合わせて一時帰国するように」というトルーマン大統領の2度の招待を2度とも断った。
100万ドルで回想録を書いてほしいという申し出も「そんな時間は無い」と占領期間中は断った。

(3) たしかにMの日本駐留中に彼自身のスキャンダル(お金も女性も・・)は無かった。
もちろん、Mは長く戦線に居て、かつ戦争直後の激動を使命感を持って過ごしたということもあったでしょう。
しかし、おいしい料理を堪能するテレビ番組が氾濫し、9月に2回ある三連休をちゃんと取っている政治家や経営者も少なくないのではないかと思われる(違っていたら御免なさい)現在の日本とはだいぶ違いますね。


(4) もう1つ興味深いのは、マンチェスター
「Mには、人種偏見がまるで無かった、白人の優位を主張するような人間を軽蔑した」
と書いていることです。
これは彼の父親も軍人としてフィリッピンに長く駐留し、M自身参謀総長のあと独立したフィリピン国陸軍創設を担う(太平洋戦争が始まるまで、Mはこれが陸軍人生の最後の仕事と思っていた)などアジアとの人的なつながり、経験が影響しているかもしれません。
これが、ひいては、彼の昭和天皇に対する好意と敬意にもつながるのではないか、ここまではっきりとは伝記作者は書いていませんが、何となく推測される書き方です。



4.最後に、Mの負の側面にも触れておきます。マンチェスターの記述です。
彼には欠点はもちろんいろいろあった。
但し、開戦当初、それぞれシンガポール攻略、マニラ攻略の総指揮官山下奉文本間雅晴両将軍が、戦時下の残虐行為の責任ありとして処刑された(例えば本間中将は悪名高い“バターン死の行進”の)ことは、欠点というより、彼の個人的な復讐心(彼は当初日本軍に攻められて敗北しオーストラリアまで脱出します)から出たもので、汚点といってもよいのではないか、と著者は厳しく批判します。

両将軍のことに触れる紙数はありませんが、自ら太平洋戦争に従軍し、レイテや沖縄で戦ったマンチェスターがこの2人の処刑の不当性に5頁も費やしているのはフェアな態度と言えるでしょう。
彼は言います
「戦時下の日本兵の残虐さについては、否定しようのない出来事である。しかし、それらは両将軍の指示から出たものではない」
両将軍とも知性に溢れた優れた軍人であり、例えば「山下は、マニラ攻略に当たって“フィリピン人に気を配り、協力するように”という指示を出している」
「もし彼らが戦勝国の軍服を着ていたら、殉教者とみなされたかもしれない」
と・・・・


人間は(優れた人物でも)いろいろ複雑な存在です。そして戦争は、様々な悲劇を生みます。