エリザベス・ヴァイニング著『皇太子の窓』を読む

1.前回はフェイスブックで、京都から2人の方のコメントを頂きました。

飯島さんが、「昨年チェコで、宝塚歌劇を紹介するプロジェクトの手伝いをした。「禎子と千羽鶴」を音楽劇として地元の子ども達と共演した。チェコは歴史に耐えた経験から平和への思いが強い国民と聞いた」と書いて下さいました。

宝塚歌劇は、いろいろな企画に取り組んでいるのですね。いい話だなと思いました。

岡村さんからは長野の良い話を2つ伺いました。1つは茅野出身の亡き奥様の墓参に高齢の小学校の先生がはるばる来てくれた話、もう1つは京都に修学旅行に来る生徒で、長野がいちばん行儀がいい」という観光バスの運転手から聞いた話、嬉しく伺いました。

f:id:ksen:20190809124635j:plain2.ところでこの夏もいろいろ本を読んでいますが、その中に『皇太子の窓』(エリザベス・ヴァイニング著、小泉一郎訳、文藝春秋新社)があり、今回はこの紹介を致します。

原著は1952年、邦訳はその翌年という古い本ですが、たまたま当地蓼科で一緒に畑をやっている年下の友人が貸してくれて、初めてでしたがとても面白く読みました。

たまたま彼と雑談をしていて、本人が学習院の卒業、父親がそこの英語の先生でヴァイニング夫人の同僚だったという話が出て、私の母も昭和の初めの大昔ですが女子学習院で学んだので、話題が広がりました。

彼の父親も本書に名前が出ているというので、貸してくれたものです。

f:id:ksen:20190718082520j:plain3.ヴァイニング夫人は1902年生まれ、大学院で図書館学を専攻し、37年大学教授の夫と死別後、児童文学の作家活動に入り十数冊の著書がある。

皇太子殿下明仁(現上皇)の家庭教師として1946年10月に来日、皇太子が学習院の中等科・高等科時代の50年12月までの4年間、英語の個人教授と学習院での英語教師を兼務した。

スコットランド系のアメリカ人。敬虔なフレンド派(クェーカー)のクリスチャン。同教派は平和主義の信条を守り、「良心的兵役拒否」でも知られる。1956年の映画『友情ある説得』(『ローマの休日』のウィリアム・ワイラー監督)では、ゲイリー・クーパー扮するクェーカーの牧師が南北戦争に志願する息子の行動に悩む物語だった。

バイニング夫人も1969年にベトナム戦争反対デモの座り込みで逮捕された経験がある。

帰国してからも皇太子との交流は続き、1959年の現美智子上皇妃との結婚式には外国人としてただ一人招待されたそうです。

1999年97歳で死去。

―――ということで、以下は本書を読んだ感想です。

f:id:ksen:20190809112524j:plain4.何と言っても、私のような庶民の伺い知れない雲の上の世界についての貴重な記録です。

しかも敗戦直後の、まだ東京に焼け野原が広がる時代に、アメリカ人の先生と日本人の生徒であるプリンスやその他皇室の面々との公私にわたる幅広い・暖かな触れ合いが展開されます。

そして先生は生徒である皇太子に徐々に敬愛を抱き、「私の殿下びいきは、よく冗談にみんなの口の端にのぼっていた」と書くまでになる。

5.なぜ実現に至ったかですが、これが皇太子の父昭和天皇のアイディアであり、当時のマッカーサー以下GHQも日本の政府や宮内庁も全く知らなかったそうで、この点が面白い。即ち、1946年春、アメリカの教育使節団が来日し、団長が天皇に面談したとき、「皇太子のためにアメリカ人の家庭教師を世話してもらえるか?」と直接訊かれた。(後で知ったマッカーサーでさえこれを聞いて驚いた、と夫人に直接語った)。

ヴァイニング夫人は「あなたを推薦してもよいか?」と訊かれて、最初は気乗りがしなかった。しかし「一方で、平和と和解のために献身したいという願いも強かった。日本が新憲法において戦争を放棄したことは、私には極めて意義深いことに思われた」と書く彼女は最終的にイエスと答える、その結果、2人の候補者が選ばれ、天皇自らが彼女を選んだ。

6.なかなか興味ある話ですが、天皇には戦争への悔いもあったでしょうし、「変わり身が早い」というか、これからはアメリカと民主主義が大事だという判断が働いたのかもしれない。

しかし、それだけではなく、昭和天皇が若いときからキリスト教に関心をもち、接する機会もあり、聖書の勉強もしていたという話は、今回関連して読んだ原武史の著書から知りました。(『昭和天皇岩波新書など)。

7.そしてヴァイニング夫人は期待に応えて天皇や皇太子に強い・良い印象を与えます。

当初は1年間だけの週1回の英語の個人教授(と学習院での授業)の約束でした。

ところが毎年延長を懇請されて結局4年続きます。

f:id:ksen:20190718082539j:plain個人教授も週2回~3回に増え(学習院での授業を入れて週3~4回会うことになる)、うち1回は彼女のアイディアで学友3人が加わるようになり、さらに皇太子だけでなく義宮も内親王も、三笠宮や皇后までが英語の授業を受けるようになります。夏休みなども軽井沢や御用邸で、勉強や交流を続けます。

もちろん授業はすべて英語で、決められたテキストではなく彼女が自分で考えたやり方と教材をもとに、基本的には自由な話あいや意見の発表を大切にします。

英語の授業を通して、民主主義、国連、教育、憲法、宗教といったさまざまな問題について語ります。皇太子や3人と一緒に聖書を読み、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』を読み、リーンカーンのゲティスバーグの演説を暗記します。

後になって昭和天皇は、「私に成功したことがあるとすれば、それはヴァイニング夫人を招へいしたことだ」とある女官に語ったそうです。(本書137頁)

少し脱線すると、三笠宮はヴァイニング夫人の家に週1回英語を習いに来るのですが、「自分で小さな日本製の車を運転して来たり、省線(いまのJR)の駅から歩いて来られたりした」と彼女は書いています。いまはどうでしょう?そんなことが可能でしょうか?時代が貧しく、余裕がなかったせいもあるかもしれませんが、何だか戦争直後の方が皇族といえども自由に動いていたような印象を持ちました。

8.――と、こんな具合に本書を紹介していると、とても紙数が足りません。

今回はヴァイニング夫人が来日してすぐに、学習院中等科を訪問したときのことを紹介して終わりにします。

彼女は1946年10月1日アメリカを発って船で16日横浜港に到着。

翌日皇居を訪問、天皇や皇太子に会う。

翌々日は早速、学習院中等科を訪問、授業参観をして、初めに級長が「礼」の一言で皆がお辞儀をする光景を見て、「私のクラスではやらない」と決めます。

そのあと校庭で先生と皇太子を含む生徒全員に紹介されます。

学校からは「紹介するだけ」と言われるが、彼女は自分から「挨拶をしたい」と言い、(通訳付きの英語で)以下のように語ります。(本書第4章39頁から)。

f:id:ksen:20190815083734j:plain「私が日本へ参った第一の理由は、日本が新憲法で国策遂行の具としての戦争を放棄したからです。他の国々も、日本の後からついてゆかねばなりません。日本がその苦難と敗北の中から、新しい力と夢を得て、平和への道において世界を指導し得るようになることを、私は信じて疑いません。

(そして)あなた方若い人々こそ、それを成就する責任をもっているのです~~~」

――この挨拶を詳しく紹介したあと彼女は、私の喋ったことを生徒たちがどこまで記憶にとどめてくれたかどうかは分からない。「しかし、4年後(1950年)に私が日本を去るとき、生徒の中の何人かが別れの手紙をくれて、私がその朝述べた事柄に触れていた」

と付け加えています。

――その時から70年経ったいま、人間という動物は相変わらず軍拡に血道をあげている・・・・ヴァイニング夫人だったらこういう現実を見て何を言うでしょうか?