松代大本営跡、象山地下壕を訪れる

1. 柳居子さん、「松代へ大本営を移転させる計画」についてコメントを頂き、有難うございます。
前回のブログに書いたように、ここを見て、歴史を知ることが今回の旅の目的の1つだったので、ご報告したいと思います。「松代大本営」という名前をご存知の方も少ないのではないでしょうか。


2.(1)「松代大本営地下壕」は、いまの長野市松代町にあり、「舞鶴山(現気象庁松代地震観測所)を中心として、皆神山、象山(ぞうざん)に碁盤の目のように掘り抜かれ、その延長は10キロに及んでいます」と、長野市観光振興課の作った案内書にあります。
以下、この案内書からです。


(2)「第二次世界大戦の末期、軍部が本土決戦の最後の拠点として、極秘のうちに、大本営、政府各省等をこの地に移すという計画をたて、1944年7月中旬、東條英機内閣最後の閣議で建設を決定した。」

(3)「地下壕は、1944年11月11日から45年8月15日の終戦の日まで、およそ9カ月の間に建設されたもので、突貫工事をもって,全工程の8割が完成した。
この建設には当時の金額で1億円から2億円もの巨費が投じられ、労働者として多くの朝鮮や日本の人々が強制的に動員されたといわれている。」

(4)「戦後は訪れる人も少なく、忘れ去られようとしていましたが、平和な世界を後世に語り継ぐ上での貴重な戦争遺跡として、多くの方々にこの存在を知っていただくため、平成元年(1989年)から壕の一部を公開しています」。


3.(1)公開しているのは、上記3つの山の1つ「象山」の地下壕で、ここには政府機関の中枢部や日本放送協会海外局などが入る予定だった由。
象山神社や象山記念館から歩いて15分ほどのところ。


(2)見学できるのは、総延長6キロのごく一部、約500メートルの区間です。
見学料は無料で、友人2人とヘルメットをかぶって中に入りました。
地下壕内には、岩盤に彫った「文字」が残っていました。朝鮮の地名のようで、労働者が過酷な工事のさなかに、自分の故郷を彫って残したのではないかと推測されています。

(3)地下壕入り口の脇には、「松代大本営工事での朝鮮人慰霊者を追悼する祈念碑」があります。1995年8月建立。
隣には、1998年にできた「もうひとつの歴史館、松代」があり、中に入ると、さまざまな資料をもとにボランティアの女性が説明してくれました。

大本営移転計画や工事の説明があり、公開に至る経緯も聞きました。
・強制連行されたり、日本各地の工事現場から移された朝鮮人労働者や、勤労動員された日本人が作業に従事した。朝鮮人の数は6千〜7千人といわれ、犠牲者も出た。3〜4人の朝鮮人女性が「慰安婦」として連れてこられた。
・地下壕は戦後長く忘れられていたが、1985年にある私立高校の郷土研究班の生徒たちが、平和のための史跡として保存・公開することを長野市長に提案し、実現した。
・しかし上述した通り、市の観光振興課が担当しているように歴史教育の場としての位置づけはやや弱いのではないか。
その点を補うべく、市民レベルのNPOなどが活動を行っており、この「歴史館」もその1つ。

ちなみに、国からの支援や補助は一切ない、とのことでした。


(4)すぐ近くに、風情のあるこじんまりした昔の武家屋敷が残っていて、蔵を改装したギャラリーにも地下壕関連の資料が展示されています。


来訪者のためのノートブックがあり、22歳の大学生による、とても良い感想文が書かれていました。それと何が書いてあるのか分かりませんが、ハングルによるコメントもありました。韓国人も訪れるのでしょう。


4.前述したように、地下壕は、3つの山の中に造られた。
現在一部が公開されている象山が政府機関ほかで、
舞鶴山には大本営天皇御座所、宮内省が入る予定だった。
舞鶴山の地下壕の延長は約2.6キロで、地上部には半地下式のコンクリート建物が作られた。
御座所は地上部と地下壕部分とからなり、いずれも特別の内装が施されていた。
現在は、気象庁地震観測所として使われており、庁舎内には、天皇の居室に予定された和室が残っている」


この和室は、外から見られるというので、私たち3人は車でそこまで行くことにしました。
9月8日土曜日のせいもあってか、小雨模様とはいえ、象山地下壕には見物客がそこそこ来ていました。
しかし舞鶴山まで足を延ばす人は私たちだけのようでした。ナビを頼りに、それでも探し・探し、山の奥に上っていきました。


5.もちろん、戦争は本土決戦の前に終わり、ここに彼らが移ることはなく、膨大な費用と労働力は空費され、施設も「無用の長物」となった訳です。


昭和天皇は果たして、この計画を知っていたか?
歴史館が作成したガイドブックには、
「敗戦前の7月31日、天皇は木戸内大臣に対し、「(三種の神器を)信州の方へ御移することの心組で考えてはどうか」と話している(木戸幸一日記)。
また、戦後の全国巡幸の際には、長野市善光寺裏の高台から松代方面をのぞんで、「無駄な穴を掘ったのはどこか」と当時の長野県知事に尋ねている。
天皇がこの地下壕の存在を知っていたことがうかがい知れるが、「昭和天皇実録」にはいっさい記述がない・・・・・」
とあります。


柳居子さんが言われる、「実際工事に掛って 一番役だった事は、徹底抗戦を叫ぶ人達を、移転作業の先遣隊として送り込んで、終戦工作をやり易くしたという事だったと。、確か 当時の内閣書記官長だった 迫水久常氏が書いておられました」が事実だとすれば、閣議決定とはいったい何だったのでしょう。
あまりに無駄な・悲しい歴史の一コマであったという気持ちは否めません。東條内閣の閣議で決まったということは、当時の国家の決定であり、国体護持が最優先されて、国民のことなど考えてもいなかったのではないか・・・・・

以下は、22歳の大学生がノートに書いた言葉です。
「歴史を知る良いきっかけとなりました。韓国と日本の友人が沢山いる一人の若者として、・・・平和が実現される社会になってほしい、そんな未来を築いていけるように努力したいです」。

戦争のとき6歳だった私は、自らあの戦争に積極的に加担したとは思わないが、
しかし・・・その後、平和のために何か努力しただろうか?
そんな反省と後悔を感じさせる、若者の言葉でした。
それにしても、いまのお国が、この保存や啓蒙にまったく関与していないという事実も、記憶にのこりました。