奥飛騨旅行と高齢者の運転

1.二回続けて星野道夫の『旅をする木』を紹介しました。彼には遺稿集として出された『長い旅の途上』という本もあります。生涯を「旅」に過ごし、その途上に彼方の世界に逝ってしまいました。

f:id:ksen:20190915072739j:plainコメントを頂いた山口(雪)さん、フェイスブックの岡村さん、有難うございます。

山口さんはご長男の影響で星野道夫をよく読んだ由。

岡村さんは、私の知らない「冒険家」の名前をあげ、中には冒険の途次若くして死んだ有名・無名の多くの人々がいるとコメントしてくださいました。

例えば、上温湯隆。22歳の若さで2度目のアフリカでサハラ砂漠を横断する途中に死亡。「旅は無謀であるほど意義がある」という言葉を残したそうです。

例えば、いま英国の国会議員として活躍中のロリー・スチュワート。イートンからオックスフォードを出た彼の名前は知っていましたが、著書『戦禍のアフガニスタンを犬と歩く』 (邦訳は2010年白水社)は岡村さんに教えてもらいました。

大臣も経験し、EU残留派の1人で今回ジョンソン首相の強引なやり方に抗議して保守党を除名された21人の1人です。「何故この様な人までもが危険をおかして旅に出るのでしょう?」と岡村さんは問うています。

その答えは私には分かりませんが、英国人の場合はたぶんに国民性と伝統が影響しているような気もします。2つの世界大戦でイートンやオックスブリッジ出身者の死傷者が多かったという「ノブリス・オブリージ」の精神も一部にはまだ残っているかもしれません。

f:id:ksen:20190903163433j:plain2.他方で星野さんより40年近くも長く生きて徒に馬齢を重ねている私は、今月上旬、大学時代の友人2人と、気楽な観光旅行に行ってきました。

昨年は、長野の奥・渋温泉の「金具屋」という映画『千と千尋の~』の舞台になったといわれる面白い宿に泊まり、長野市松代町大本営跡を見に行きました。

松代は、戦争末期の日本の悲劇の一端を知る上で勉強になりました。

――「第二次世界大戦の末期、軍部が本土決戦の最後の拠点として、極秘のうちに、大本営、政府各省等をこの地に移すという計画をたて、1944年7月中旬、東條英機内閣最後の閣議で建設を決定した。」

「地下壕は、1944年11月11日から45年8月15日の終戦の日まで、およそ9カ月の間に建設されたもので、突貫工事をもって,全工程の8割が完成した。

この建設には当時の金額で1億円から2億円もの巨費が投じられ、労働者として多くの朝鮮や日本の人々が強制的に動員されたといわれている。」

――と案内書にある地下壕は、象山・舞鶴山など3つの山の中に造られた。

舞鶴山には大本営天皇御座所、宮内省が入る予定で、御座所の一部は外から覗くことができます。

f:id:ksen:20190904085333j:plain現在一部が公開されている象山が政府機関の予定地で、戦後長く忘れられていたが、1985年にある私立高校の郷土研究班の生徒たちが、平和のための史跡として保存・公開することを長野市長に提案し、実現したそうです。

3.今年は、新穂高温泉から白川郷五箇山をみて、高山に泊まるという、やはり2泊3日の行程ですが、もっぱら「観光」でした。

宿は、3人が一部屋に泊まりますから、年金生活者には手頃な値段です。

新穂高の温泉宿はなかなかよい湯でした。

天気はいまいちでしたが、それでも朝食の食堂から、雲の晴れ間から槍ヶ岳の頂きが遠くに見えて、「ラッキーですね」とおかみさんに言われました。

お湯は、貸し切りの露天風呂が3つもあり、それぞれに渓流に面していながら趣向が異なり、幸いお客さんも少なかったので、いちばん小さな風呂に二度も入りました。

湯舟に大きなブランコがあり、子供が喜んで入ることでしょう。

翌日は世界遺産白川郷五箇山を見に行きました。

f:id:ksen:20190904125530j:plain私は初めてでしたが、冬の豪雪地帯で住めるように、江戸時代末期から明治にかけて作られた茅葺の合掌造りの家屋がいまも何十軒も残っていて、住民も暮らしています。保存していくのは苦労も多いでしょう。そのためには、静かに暮らしつつも観光地化せざるを得ないのでしょう。昔の日本の農村の姿を思い起こすよすがになりました。

この日の泊りは高山でした。

4.松本までは電車で行き、レンタカーをして、これらの地を回って、3日目の午後また松本に戻ってくるという約200キロの道程です。

道程のかなりが、道幅が狭く、カーブの多い、暗いトンネルの多い山道で、運転は友人の1人が終始担当しましたが、さすがに慎重でした。幸いに車がさほど多くなく、その点は助かりましたが、彼は後ろからついてくる車があると、道幅が広いところで停まって後続を先に行かせます。高齢者らしい運転です。

彼は日ごろ「運転が好き」と言っているのでもっぱら任せました。他の1人はすでに免許を返上し、私はいまだに続けていますが、手を挙げて「やろう」というほど好きでもなく、いざというときの待機要員にすぎません。

老人3人が、車中ずっと一緒に過ごし、夜も同じ部屋で寝るまで過ごす訳ですからその間いろんなことを喋り、これもまたなかなか楽しいものです。いまの国際情勢、日本の過去の戦争や戦後、病気の話、孫の話など多岐にわたりますが、どうしても車と運転にも及びます。高齢者の運転への懸念が大きく報道される昨今、いつまで続けるかといった話です。

f:id:ksen:20190904113948j:plain周りの友人の中にも、老いを自覚したり、子供に言われたり、昨今の世相を懸念したりして、車を手放した・免許も返上したという話をよく聞くようになりました。

我が家にとっても悩ましい問題ですが、以下のような状況です。

(1)年のうち3か月は長野の山奥の古い家で過ごす。都会の喧騒から逃れたくて、いっそ定住したいと思うくらいだが、公共交通機関がなく、車がないとどこにも行けない地である。地元の老人も90歳を過ぎても軽自動車を運転している。

(2)ということで車は手放せないので、出来ればもう暫くは続けたい。

(3)気をつけていることは、

・車に高齢者マークをつける。

・都内では、とくに人混みでは殆ど運転しない。

・夜、雨の日の運転も出来るだけ避ける。

・高速を走るときは、追い越し車線にはほとんど入らず(つまり追い越しをせず)、走行車線を時速80から90キロぐらいで走る、休憩をなるべく多く取る。

・何かあったらたいへんなので、孫や他人はなるべく乗せない。

・情報収集が大事―例えば「眠眠打破」というカフェイン入りの飲み物がコンビニでも売っているが、眠気を追い払うには効き目がある。20年も昔からあるそうだが、我が家は情報にうとく、昨年松代の旅で友人に教えてもらった。

・他方で、車の安全装備の設置や利用の仕方も変化し、進歩しているようで、こういう情報も口コミなどで出来るだけ入手するようにしている。

・そうかと言って、今さら新車を買い替えるほどの気力も経済力もなく、古い大衆車を何とか乗り続ける・・・・

といったところでしょうか。

f:id:ksen:20190907094140j:plain5.ということで、友人との観光旅行を終えた翌々日も、家人と通いなれた道を茅野から東京まで交代で運転しました。9週間続けて滞在したので、本や書類・衣類・食料品など山のような荷物を積んで、中央高速を走りました。

天気の良い日で、途中富士山もよく見え、渋滞もなく、何とか無事に帰り着きました。

次回は10月初めに予定しています。

我が家の場合、上記の上温湯さんの言う「旅」ではなく、必要に迫られての「移動」なので、「無謀」は絶対に避けて安全に移動したいと思っています。