星野道夫と『旅をする木』再び

1.茅野の山奥には木々だけは豊富にあります。家人がエサ台を作って、ひまわり

の種子を置いておくと小鳥が止まってついばんでいきます。

f:id:ksen:20190712091922j:plain

f:id:ksen:20190901094852j:plain

2.「木」といえば今回も、『旅をする木』から知った星野道夫さんのことです。

アラスカに暮らし続けて15年も経って書いたこのエッセイ集から、彼の軌跡を辿ると、

(1)初めての海外行きは1969年16歳の高校生の夏、父親に資金をカンパしてもらっ

て、約40日間バスやヒッチハイクアメリカ、メキシコ、カナダを一人旅する。

(2)慶応大学生の1973年、アラスカの極北の村でエスキモーの家族と3カ月生活をともにし、クジラ漁を手伝う。

(3)1978年、アラスカ大学受験のため再び日本を離れ、以後フェアバンクスを拠点に、海鳥の調査に参加したり、カヤックで旅したり、氷河でオーロラを撮影したり、カリブー(トナカイ)の季節移動を追いかけたりする。

(4)この間、自分たちの先祖はワタリガラスなどの動物の化身なのだと信じる先住民の神話やトーテムポールの存在に関心を深めて、調査と取材を続け、彼らが遠い昔にやってきたベーリング海峡の向こう側のロシアまで調査を伸ばし、熊に襲われて命を落とす。

3.星野さんの文章と写真から感じるのは、彼の行動力、実行力、大自然・動物・先住民と彼らの神話に対する深い愛情、そして誰とでも仲良くなる人柄の魅力です。

以下、その実例を幾つか紹介します。

まず初めての一人旅について書いた「16歳のこと」という文章から引用します。

――「カナダでヒッチハイクをしながら拾ってもらったある家族とは、10日間も一緒に旅をし、25年も経った今も家族のようなつながりが続いている。昨年久しぶりに夫婦が住むエドモントンを訪れ、25年前の旅の話に花を咲かせた」。

当時7歳だったビリンダはカナダの個性的な女優になり・・・・「あの日、国道でヒッチハイクをしていたミチオの前を通り過ぎた後、ビリンダが、どうしても“もう一度戻って乗せてあげて”と言い張ったの」と年老いた母親が懐かしそうに話してくれた。

4.「ある家族の旅」はアラスカ大学の同級生ケビンとその家族について。

(1)父が飛行機事故で他界、娘シェリーを亡くすなど不幸に遭い、母親パットは残った4人の子供を連れてマサチューセッツから移住したばかりだった。

コロンビア大で学ぶシェリーは、アメリカ大統領の中国語通訳の候補に上がっていたほどの優秀な学生だったが、ある殺人事件の犠牲者となる。(略)母親がアラスカに旅立ったのはそれから2か月後のことだった。以来十数年をこの地で暮らすことになる。

(2)他方、ケビンはコーネル大学の博士課程を終え、父の後を継いで化学者となる。知り合って15年後、星野がアメリカ東部の町ピッツバーグで初めての写真展を開いた時、オープニングのパーテイに結婚したばかりの奥さんを連れてはるばるニューヨークから駆けつけてくれた。

(3)そして星野は、「アラスカの自然は、母親のパットだけではなく、この家族にそれぞれの力を与えたような気がした」と書き、なぜ自分もアラスカに根をおろそうとしたかについて語る。――21歳の時、中学からの親友Tが信州の山で遭難死した、「遭難現場でTの母親に会った。子どものころから世話になっているぼくにとって、彼女は自分の母親のようでもあった。変わり果てたTを見つめ、涙さえ見せなかった。“あの子のぶんまで生きてほしい”と微笑みながら言った」。

f:id:ksen:20190901170255j:plain(4)1年がたち、星野は悲しみの中からある答えを見つける。それは「Tの母親の言葉に帰り、好きなことをやっていこう、とにかくもう一度アラスカに戻らなければならない」という強い思いだった・・・・。

5.そもそも、初めてアラスカの地を踏むことができた経緯はというと、

(1)10代のある日、神田の古本屋街の洋書専門店で、アラスカの写真集を見つけて夢中になる。その中に「どうしても気になる1枚の写真があった。北極圏のあるエスキモーの村を空から撮った写真」で、「キャプションに村の名前が書かれていた・・・」。

(2)「この村に手紙を出してみよう、でも誰に?住所は?辞書を開くと、村長にあたる英語が見つかった。住所は、村の名前にアラスカとアメリカを付け加えて出すしかない。

“あなたの村の写真を本で見ました。たずねてみたいと思っています。何でもしますので、誰かぼくを世話してくれる人はいないでしょうか・・・”」。

(3)「初めて書いた英語の手紙がいかにつたなかったか」と星野は書く。「当然、返事は来なかった」。

➜ところが半年もあったある日、1通の外国郵便が届いた。村のある家族からで“・・・夏はトナカイ狩りの季節です。人出も必要です。・・・いつでも来なさい・・・”。

(4)「約半年の準備をへて、アラスカに向かった」彼は、3か月の強烈な体験をする。

「初めてのクマ、アザラシ猟、トナカイ狩り、太陽が沈まぬ白夜、さまざまな村人との出会い・・・」。

f:id:ksen:20190901110112j:plain(5)「この旅を通し、人の暮らしの多様性に惹かれていった」と書く彼はまた、「生命体の本質とは、他者を殺して食べることにある」という当たり前の真実に目覚める。

そして、「私たちには、時間という壁が消えて奇跡が現れる神聖な場所が必要だ」という、ある神話学者の言葉に納得し、上に書いたように親友の死にも遭って、この地に戻って定住する決意を固めるのです。

(6)「アラスカとの出会い」と題するこの短いエッセイは、20年以上も経ってフェアバンクスに居る彼に親友のブッシュ・パイロットのドンから電話が入るところから始まります。「いま、ナショナル・ジオグラフィック・マガジンからカメラマンが来ている。北極圏にカリブーの季節移動を撮りに行くらしい。おまえに情報を聞きたがっているんだ」。

名前にかすかな記憶があって、古い写真集を持参して、彼に会いにホテルに出向くと・・・・何と星野が魅せられた写真を撮影した当人だった・・・・。

「そうか、私の写真が君の人生を変えてしまったんだね」と言う初老の写真家の目の奥が、優しく笑っていた、とは星野道夫の言葉です。

f:id:ksen:20190831130850j:plain(7) 以上(1)から(6)まで、長い小説が書けそうだなと私なら思うのですが、星野はたった6頁の短い文章で済ませます。まるで、この程度の出来事は自分の人生の中のほんの一齣だとでも感じているかのように。

6.『旅をする木』は、こんな逸話に溢れた書物で、2回読んで,私のような老人でも心を満たされました。

最後に、生前星野と親しく、彼の早すぎる死をおそらく限りなく悲しんだ一人であるだろう池澤夏樹が書いた本書の解説から引用して終わりにします。

(1)「星野道夫はアラスカが好きで、~~厳しくて、公正で、恩恵に満ちた自然と、自然に依って正しく暮らす人々を見た。そして、自分がそれを見られたこと、その人々の出会えたことの幸福を何度もくりかえし書いた」

(2)「書物にできることはいろいろある。~~しかし、結局のところ、書物というものの最高の機能は、幸福感を伝えることだ」

「『旅をする木』で星野が書いたのは、ゆく先々で一つの風景の中に立って、あるいは誰かに会って、いかによい時間、満ち足りた時間を過ごしたかという報告である。実際のはなし、この本にはそれ以外のことは書いてない」

(3)「~~言ってみればぼくたちは、(略)彼の体験と幸福感を燃やして暖を取るエスキモーである。それがこの本の意味だろう」

――ということで、良い本と良い日本人の存在を教えてくれた、私より60歳近く若い大学生の女性に感謝しています。