オーハンゴンソウの駆除と『社交する人間』(山崎正和)

1. デトックスマツコさん、7月24日付の・ジパング会員証の不携帯で「制裁」を受けた話に、8月15日にコメントを頂き、有難うございます。
80歳の母上が同じような目にあって、おまけに「ほとんど犯罪者扱い」だったとのこと。会員証をただ忘れただけで、いくら何でもひどいですね。お気持ちお察しします。
「同じ経験をなさった方のお話が伺えてなんとなく救われました。」
と書いておられ、ブログにアップしてよかったな、と思いました。


2. ところで、前回書いた蓼科の「うんちく・じゃがいもパーティ」ですが、天気も良く、無事に実行、昼前から夕方まで長時間、ほとんど戸外にて賑やかに過ごしました。
4組8人にもう1人飛び入りがあり、この方が、女子大英文科の名誉教授で言語学の権威というので、会話のレベルが上がりました。


1週間あとの土曜日(昨日)は今度は朝から2時間ほど、区域に繁殖するオーハンゴンソウの駆除作業に老夫婦で参加しました。管理事務所から声がかかり、事務所から2人、住民が5人参加してのボランティア労働です。

オーハンゴンソウ(大反魂草)は、北米原産、キク科の「特定外来生物」。
「特に北日本や中部日本の高地で多く、繁殖力が強く、在来植物の生態系に影響を及ぼす恐れがある。そのため、全国各地で駆除作業が行われている」。

しかし、「地下茎や埋土種子(土壌シードバンク)で繁殖することができ、単純に刈り取るだけでは根絶は難しく、スコップなどで根ごと引き抜き、抜き取った根は焼却処分する必要がある」(ウィキぺディア)
とあるように、結構面倒な作業でしたが、いい汗をかきました。


3. そんな時間を過ごしながら田舎でも人に会う時間が結構あるなと思いつつ、もう
何年も前に愛読した『社交する人間、ホモ・ソシアビリス』(山崎正和、2003年)を思い出し、書棚から手に取りました。


「人間は社会的動物」とはよく言われるが、むしろ「社交的動物なのだ」という問題提起に沿って、「社交」の意義と復活を論じる著作です。

著書は例えば、こんな風に書きます・

(1) ――この世で人が人に会うことの不思議さに感動し、1回ごとの邂逅(かいこう)を生涯の大事と考える「一期一会」の教えは、日本の茶の湯の中心的な思想だった。


西洋でも18世紀の前半には、社交に文字通り、命を賭けて、「虚礼」を実業以上に人生の義務として重んじる人びとが生きていた ――


(2) ――(そして)社交のなかでは人びとは互いに中間的な距離を保ち、いわば付かず離れずの関係を維持することが期待されている。この点、日本語の「つきあい」という言葉は含蓄に富んでいて、この両義的な距離感覚をみごとに言い表している。
――

(3) ――社交的な人はしらけない人であって、自分のものではないさまざまな感情の物語に「つきあう」ことのできる人である―
――社交する精神はすべてにしらけない関心を抱き、それでいて本質的に無欲であることが期待される。何ごとをも遊びと見なしながら、その遊びに対して真面目でなければならない。

というような定義から始めて、遊戯との関係、その作法や歴史、経済・政治・文化文明との関係、現代社会における意味・・・と論じて、最後は以下の考察で終わります。

(4) 「もし現代文明に「第三の道」と呼べるものがあるとすれば、それは一方に地球社会、他方に国家や企業を含めた組織社会をひかえて、その両方に拮抗して個人に心の居場所を与える、もう1つの人間関係でなければならないだろう」

著者の問題意識は、現代は「社交」の重要性が忘れられている、その復権が大事ではないかということです。「開かれた・横のネットワーク」の大切さと言い換えてもよいかもしれません。

そして、国家や企業の硬い・合理的な「社会」が、「社交」の柔らかい・しかし礼儀作法を守った人間関係と対比されます。

このあたりを読み返して、うんちく・じゃがいもパーティもオーハンゴンソウのボランティア作業も「社交する人間」の営みなのかなと感じました。

僭越に言えば、オリンピックで選手1人1人の姿に感動しますが、他方でスポーツも、国家や企業の硬い・合理的な「社会」と対比する柔らかい人間関係=「社交」の一形態と考えたいなと言ったら、選手諸兄姉に失礼でしょうか。
それでも、もちろん死にもの狂いの努力の結果とはいえ、「思い切り楽しみました」なんていう受賞のコメントを聞くと、「社交の精神」のある人だなと嬉しく感じます。


4. 『社交する人間』の中で著者は「社交」には、遊戯性と作法と身体性とともに、会話の重要性を強調します。

そこで最後に、英国の思想家マイケル・オークショットという人が「会話」についてどう言っているか?について、前々回取り上げた『保守主義とは何か』から孫引きすると以下の通りです。

この本の著者は、オークショットの「保守的であること」という論文で彼が、「人類の会話というヴィジョンを提示している」として以下のようにそれを解説します。


「友情の目的が友人を変えることではないように、会話の目的は何らかの結論を出すことではない。会話で大切なのは、複数の話し言葉が行き交うことである。多くの異なる言葉が出会い、互いを認め合い、そして同化することを認めないのが会話の本質である。
一つの「声」が他を圧倒してしまうのは、会話ではない。
このような会話こそが、人間と人間の関わり合いについての適切なイメージであるとオークショットはいう。」


――こういう発想は、山崎正和の言う「社交する人間」にも通じるのではないか、と考えました。
いまの日本でも、「社交的動物」が増えるといいなと思います。