中津の旅―福澤諭吉と黒田官兵衛のまち

1. arz2beeさんお礼が遅くなりました。有り難うございます。
「なぜかをうまく言えませんが」というお気持ちが僭越ながらよく分かるような気がします。私も全くそうだなと思いました。
心理学に惹かれる人は多く、私が勤めた京都の大学は、臨床心理学科を日本で最初に作ったのですが、若者に結構人気がありました。ここは一時、フロイドと並ぶユング(分析心理学の創始者)を学ぶ研究者が多く、ユング派の牙城のような感じでした。
元学長は日本ユング学会の会長でもあり、「プシケ(たましい)」と題する学会の機関誌に何か書けと言われて、「ユングに縁遠い私」という雑文を載せたことがあります。
せめて「ユング自伝」ぐらい読んでから書いた方がよいと言われて大学図書館に借りましたが、やたらに「夢」という言葉が出てくるのに驚きました。
自伝は「私の一生は、無意識の自己実現の物語である」という文章から始まり、3歳に見た夢を覚えておりしかもそれが重要な内的体験であるという記述が出てきて、こういう天才とは人間の出来が違うなと痛感したものです。
彼の自伝は夢やビジョンについて多くを語り「この内的な出来ごとにくらべると、旅や人々や私の周囲についての他のあらゆる記憶は色あせてしまった・・・」と言います。

2. 凡人である当方は、人々とともに旅に出掛けて戻ったばかり。
「記憶が色あせない」前に、今回は記録しておきたいと思います。
福沢諭吉を読む」というゼミを米山慶応義塾大教授(前福澤諭吉研究センター所長)のもとで4年続けており、かねて懸案になっていた諭吉ゆかりの地・中津(大分県)を訪れたものです。
ゼミ生は当初の15名から今は9名に減り、そのうち5名が遠出が可能で先生引率のもと2泊3日の旅を無事終えて昨日夜遅く東京に戻りました。
慶応出で60歳&55歳の「若い女性」が2人、あとは60代70代の男性3人です。
趣旨は、観光もかねた「スタディ・ツアー」です。
かつ2泊となったのは、折角なら、耶馬渓から日田まで足を伸ばそうという狙いです。耶馬渓は観光ですが、日田は広瀬淡窓という江戸時代末期の漢学者&教育者の存在で知られ、その足跡を辿る目的です。
広瀬淡窓は、天領だった日田の豪商の家に生まれ、家業を弟に譲って、儒学で身を立て、彼が開いた私塾「咸宣園(かんぎえん)」は幕末の代表的な私塾の1つで、入門生はのべ5000人と言われ、全国66カ国(当時は68の藩があった)から集まったそうです。
高野長英大村益次郎も学び、頼山陽などの著名な知識人もたびたび訪れたそうです。清浦圭吾というもとの総理大臣も学んでいます。
なぜ、辺ぴとも言える日田に当時かくも栄えた「教育機関」があったのか?は実際に行ってみないと分からないということで、訪れたものです。

ちょうど紅葉の季節で、天気にも恵まれましたが、ジャンボタクシーの運転手が「このところ、この地も“ぬくいけん(暖かいから)”紅葉もいまいち、昔はこんなものじゃなかった」と盛んに言っていました。

3. 今回は、メインの目的地である中津の話です。
初めて知りましたが、同地は「はもの里」とも言うそうです。
羽田から福岡空港に着き、JR[ソニック]に乗って、黒崎・小倉を経由して1時間ほどで中津到着。福岡県境に近く、漁港もあり、魚が豊富です。
とくに「はもの里」とも呼ばれるそうで、我々も早速駅前のホテルに荷を預けて、昼食は「はも尽くし」になりました。
はもは、東京では食べたことがありませんでしたが、13年過ごした京都ではよく頂きました。旬の食べ物として6月ごろから食卓にのぼり珍重されますが、ここでは1年中食べるそうで特に珍しい食べ物ではなく、「昔は家庭で普通に食べました。骨切りが難しいので家庭料理はけっこう骨が残って、それも平気で食べました」とは仲居さんの話です。
満腹したあとは、静かな町を歩いてまずは、福沢諭吉の旧宅へ。
今年は彼が1万円札の肖像に選ばれて30年だそうで、駅前の銅像の横に「祝・・30周年記念」の看板がかかっていました。


4. 福沢諭吉の父は「福翁自伝」によると「豊前中津奥平藩の士族」「足軽よりは数等よろしいけれども、士族中の下級」とあります。諭吉は父がたまたま大阪の倉屋敷に勤めているときに生まれましたが、2歳で父に死に分かれ、中津戻り、19歳で蘭学を学ぶため長崎に出るまで過ごしました。
中津の家風に合わず、「同藩中の子弟とうちとけて遊ぶことが出来ずに孤立していた」と自伝にあります。
もちろん当時中津だけではないでしょうが、彼は続けて書きます。
「中津は封建制度でチャント物を箱の中に詰めたように秩序が立っていて、何百年経ってもちっとも動かぬというありさま、家老の家に生まれたものは家老になり、足軽の家に生まれた者は足軽になり・・・」
下級武士でありながらひたすら漢学を学んだ「学者であった」父百助の45年の生涯を振り返って、どんなに優秀で学問にはげんでも「封建制度に束縛されて何事もできず、空しく不平をのんで世を去りたるこそ遺憾なれ」と嘆き、束縛を逃れるには坊主になるしかない、「父が私を坊主にすると言ったのはその意味であろう」と思い、亡父の心のうちを察してひとり泣くこともあった。
そこから彼の有名な言葉「私のために門閥制度は親のかたきでござる」が
「自伝」で語られます。


5. もっとも、江戸に出て著名人となった後の福沢は中津のために種々尽くします。
中津もまた彼を郷土の生んだ、もっとも尊敬する人物として讃え、旧宅を保存し、資料館をつくり、街を歩くと、写真のように福沢の言葉があちこちに飾られています。

中津城の一角には、「独立自尊」と大書した見上げるように高い碑まで立っています。

この日、旧宅&資料館は平日にも拘わらず、観光バスも停まって大勢の入場者でにぎわっていました。
実は大きな理由は、大河ドラマのせいで、今年の主人公は黒田官兵衛
彼が中津城を築いた初代城主だそうです。その後、細川・小笠原・奥平10万石が幕末まで続いたそうです。

テレビの人気というのは大したもので、中津城を訪れて、ついでに福沢、というコースになるようです。
館長さんも「お陰さまで今年は久し振りに年間10万人を超えそうです」と喜んでおられました。
もちろん頂いた資料には、福沢の郷土への複雑な思いに触れた箇所はなく、「母と6人で中津に帰郷し、貧しくとも信念をもった少年時代を過ごし・・・」とあり、彼が書いた「中津留別の書」が引用されていました。
「1870年、年老いた母を(東京に)迎えに帰郷したおり、愛する郷土の人々のために書いたもので、広く西洋の学問を学び、自主独立の精神を養うことは急務である、と切々と訴えている」とあります。


地方の小都市の貧しい若者が、将来、日本の思想界のリーダーとして育っていくような土壌が、いまの日本社会に果たしてあるだろうか、と考えました。