漢字教育と「大観院独立自尊居士」

1. 中島さん(フェイスブック)、さわさきさん、我善坊さん、柳居子さん、コメント有難うございます。

何れもたいへん興味深く拝読しました。
銀行が法務省よりも硬いというのは面白いですね。銀行の姿勢の背景には、大ざっぱを好まない、細かいことに文句をつける社会の在り方も影響しているのでしょうか。


2. 皆様のコメントに共通しているのは、名前から拡がって、日本語における漢字の効用を意識して発言しておられることかと思います。

言語学が専門の鈴木孝夫氏(もと慶応教授)の、漢字の利点についての以下のような指摘を思い出しました。(『日本語と外国語』岩波新書1990年)

「英語を少しでも深く学んだ人ならば、誰でも経験することの1つに、いくら覚えても切りがないほど、難しい単語が次から次へと出てくるということがある。
・・・(なぜか?)

日本語では、日常的でない難しいことばや専門語の多くが、少なくともこれまでは、それ自体としては日常普通に用いられている基本的な漢字の組み合わせで造られているのに、英語では高級な語彙(ごい)のほとんどすべてが、古典語であるラテン語あるいはギリシャ語に由来する造語要素から成り立っているからである。」

これを鈴木氏は「意味論的透明性と不透明性の相違」と名付け、日本語は前者であり、それは表意文字としての漢字(さらに、音と訓と2つの読み方があること)のおかげと指摘します。
つまり日本語の場合は英語と違って、「聴いただけでは、ほとんどが意味不明(不定)であった高級語彙の大部分は、漢字という特殊な文字で表記されたとたんに、一気に理解可能、というよりも、むしろ一足とびに易しい語彙になってしまうのである。」


これを比喩的に言えば、
「日本語は音声と映像という2つの異質な伝達機能を必要とするテレビ型の言語であり、これに比べると西欧の諸言語は音声にほとんどすべての必要な情報を託すラジオ型の言語だ」

たとえば、

「植物の、太陽に向かって伸びていく性質が向日性で、月光を求めて成長する傾向が向月性だといわれても、日本人はあまり驚かない。
ところが英語では、前者がheliotropism後者はselenotropism となる。ギリシャ語で「太陽」がhelio で、「月」がselen、「動く」がtropein ということを知らなければ、自分で作ることはおろか、見ても分からないのである。


こういう漢字の利点からして、カタカナ日本語の氾濫がいかに日本語の衰退をもたらすかについても以下のように厳しく批判しています。


「飛燕草という名前は、デルフィニウムという名の洋種の花がかって輸入されたとき、当時の園芸家が知恵を絞って考え出したものである。
その花を見ると、たしかに燕(つばめ)が飛び交っているような印象を受ける花で、よくぞつけたと感心するほかはない傑作である。

この美しい名前を捨てて、元のデルフィニウムになぜ戻す必要があるのか、私には全く理解できない・・・・」


引用が長くなりましたが、本書が出たのはもう20年以上前です。著者の嘆きにも拘わらず、飛燕草はいまや死語になってしまったようです。


3. 皆様のコメントに戻りますと、ご指摘の通り、
「姓も名前も漢字が実態」であり、
柳居子さんの、「幾つもの名乗り」も表意文字である漢字だからこそでしょうし、
読み方は「sawazaki」でも「sawasaki」でも、「zaka」でも「saka」でも一向に構わない。
福澤でも福沢でも漢字での表記そのものはまことに大事だが、どちらでも構わない。読み方も「ふくざわ」でも「ふくさわ」でもOK。


だからこそ、中島さんご指摘の明治の先人の苦労(「自由」だの「個人」だの「社会」だのを造り)は、本来「飛燕草」という美しいことばまで続いていくべきでしょう。


4.そこで思い出しましたが数日前の東京新聞の投書欄に、「ある小学校の児童が自分の名前を全て漢字で書いて先生に叱られたというニュースを見た」とあり、大いに驚きました。

「理由は、まだ教えていない漢字は使用してはいけないというもの」だそうです。
私はニュースそのものを知らなかったので、どこまで事実か分かりませんが、事実としたら、日本の教育は寺子屋時代からここまで衰退したということでしょうね。


そもそも、このエピソードは
(1) 学校でみんなが一緒に学んだかどうかに関係なく、漢字を学ぶ姿勢の大切さを評価することを先生が怠った

と同時に

(2) 自分がいかに他人と違うかを学ぶのが教育だという基本認識に欠けている
と考えます。

算数も国語も地理も出来なくても、体育の時間や運動会でトップで走る子どもがいる・・・それが、その子にとってどんなに誇らしく・生きる喜びを与えてくれるか、それを教えるのが教育ではないでしょうか。


福澤諭吉がもっとも大事にした「独立自尊」がこれだと思います。
因みに彼の戒名は「大観院独立自尊居士」です。

また、我善坊さんご指摘の「いみな(諱)」福澤諭吉事典(慶応義塾)によると「範(はん)」と読むそうです。


5. そういえば、話は違いますが、東武伊勢崎線の駅名が「業平橋駅」から「東京スカイツリー駅」に変更された由。
そのうち誰も、在原業平なんて読めなくなりますね。
 京都だったら、こういうことは起こらないでしょうね。