まだ日本語のこと漢字やカタカタ外来語など。

1.中島さん(フェイスブック)、柳居子さん、我善坊さん、氤岳居士さん、有難うございます。コメンテーター同士の意見交換がまことに有難く、感謝です。
中島さんを別にすれば、世代的には近いので変わりつつある日本語への嘆きは共有していますね。

2.もちろん言葉は日々誰もが使う以上、変化するもので、いつまでも消えてしまった「麻布霞町(かすみちょう)」や「本郷曙町(あけぼのちょう)」の響きを懐かしがっても仕方ないのですが、他方で、一人ひとりの・美しい日本語を守る意識的な努力も必要だろうと考えるものです。

明治以来の仮名文字論、ローマ字論、漢字廃止論、いわんや英語公用語論に対して、先人が日本語を守るために必死に努力してきた(例えば、明治初めの森有礼文部大臣の英語国語化論に対して、福澤の愛弟子・馬場辰猪がロンドンから英文で出版した日本語擁護論がその典型)、その歴史を忘れるべきではないでしょう。

ここで、日本語にとって漢字がいかに大事かという鈴木孝夫さんの主張を再度要約しておきます(『日本語と外国語』から)。

(1) 現代日本語の音声組織(音素の数や組み合わせなど)は、西欧語に比べると驚くほど貧弱である。かつ日本語の基本語彙である和語(「かたい」「とる」「なく」「なる」等々)は英語のそれよりも抽象性が高い。

(2) だからこそ、漢字という視覚を利用する手段の助けが、今後も絶対に必要。

(3)     ところが、漢字は、ダサい、効率が悪い、難しい等、否定的な漢字観を持つ人がいまだに多い。(戦後直後の文部省も然り)

(4)  漢字(語)は口に苦い良薬だが、カタカナ外来語は甘い口当たりの良い糖衣に包まれた毒薬である。


3.中島さんのコメントはたいへん面白いのでフォローしたいですが、硬い議論が続いても「相変らず理屈っぽい」と言われそうなので省略します。ただ、同氏のフェイスブックのコメントを最後に再録しておきます。
「西欧の良い舞台や芝居や名演説には、口語の日本語を使用する場合に比べて、論理・意味の明確さと説得力、及び音楽的な美しさの2つが備わっているように思います」
というコメントは、私はなるほどと思いますが、異論のある方もおられるでしょう。


4.最近、Tさんという年下の友人夫妻と昼食をともにしました。
今回私がNYに行ったとき、彼に頼んで「イェール・クラブ」を予約してもらったので、そのお礼にお昼を誘ったものです。
昔の勤務先は施設があって、平日の昼は空いていて安価で落ち着いて、イェールクラブほどの雰囲気はありませんが、助かります。
彼は、7歳のときに父上の仕事でアメリカに住み、以来、大学(イェール)・大学院(スタンフォード)を終えて、そのまま長くアメリカで仕事をしました。日本を永住の地に選びました。
教育はすべて英語で受けたのですが、日本語もまったく問題なく、実にきれいな言葉を話します。
(そういえば、今場所の大相撲で優勝した旭天鵬の日本語も、生まれついての日本人以上にきれいで、何か品がありますね)

Tさんの場合、おそらく家庭でご両親が必死になって日本語を忘れないための努力をされたのだろうと思います。私事ですが、私の2人の娘もアメリカの公立の小学校に入りましたが、妻が毎日日本語で日記を書かせ、そのお陰か帰国しても問題なく日本の学校に通うことができました。

彼ら夫妻もNYに所用で出かけて帰ってきたばかりだったので、暫く最近のNY事情について話が弾みました。
その際、私が不用意に「グラセン」「ドラマル」という日本語を使ったので、これは彼には理解されず、訊きかえされました。

4.「グラセン」はグランド・セントラル・ステーション(大中央駅)の略、「ドラマル」はカクテルの「ドライ・マテイーニ」の略で、当時NYに住む日本人駐在員が好んで使った4文字の省略語です。
マティーニ」はmartiniなので、rが入って語呂がよいから「ドラマティ」でなく「ドラマル」にしたのでしょう。

ちなみに、カタカタ外来語がいかに毒薬か、という鈴木さんの主張には、この「グラセン」用法も1つの理由なので、最後にこの点を補足します。

(1) カタカナ外国語の多くは、ひとたび使われ出すと、当然ながら縮約現象がすぐ起こる。そのため、原形の分からぬ単なる符牒と化してしまう。

(2)例えば「コン」をつけた言葉は実にたくさんあるが、もとの英語を考えてみると「パソコン」はパーソナル・コンピュータ・・・とそれぞれ違う。
・ 他に「リモコン」「マザコン」「駅コン」「合コン」「エアコン」「ツアコン」「ゼネコン」・・・等々、全てもとの英語は違いますが、お分かりでしょうか?

(3)「リモコンとはリモート・コントロールの省略で、英語remote control 、つまり遠く離れて対象をあやつること、遠隔操作のことだといった、ことばの由来の道筋をたどれる人は、かなりの物知りに限られ、一般の人はリモコンを1つの塊として、全体として理解し、使っていると思われる。この意味で、リモコンは不透明語なのである」

そして鈴木先生はこう付け加えます。
(2) 「カタカナ英語の多用は日本人相互の意思疎通の障害になるだけではない。日本語を学ぶ外国人にとって、頭痛の種となっている」

私が不用意に使った「グラセン」「ドラマル」はたしかにTさんの日本語理解を混乱させたのではないか、と反省した次第です。

(参考)中島 新平 テレビ的な言語と言えば、中国語や日本語は、世界(の中の個々の事象)を漢字といういわばブロックに変換して、それを組み立てて世界の近似モデルを作って把握しているのではないかと思います。これらの言語は概略を伝えるにはまことに便利であっても(百聞は一見に如かず)この言語を使う民族の発想は「目に見えるもの」「形があるもの」になりがちで、それらのシンプルな関係は把握できても、複雑な抽象思考は生まれにくいのではないかと思います。また、ラジオ的言語は音楽と同じく、一直線の時間的なつながりの中でリズムや抑揚が発達しやすいのではとも思います。論理、伝達の流れも耳で聞いただけで把握できるようになるので、西欧の良い舞台や芝居や名演説には、口語の日本語を使用する場合に比べて、論理・意味の明確さと説得力、及び音楽的な美しさの2つが備わってるように思います。