「英語の世紀の中で」(水村美苗)考える

1. 一昨日まで、大学時代の友人2人が田舎を訪れてくれて、愉快な日々を過ごしました。
一日は松本までドライブをしました。清潔で落ち着いた、気持ちの良い街で、道を訊いたりしても、皆さんとても親切でした。
お城の天守閣(国宝)を上がり、開智学校や旧制松本高校あとの建物を見て歩きました。
戦災や空襲に遭わなかったそうで、幸せな街だなと思いました。

「文禄(1593〜94)年間に建てられた五重六階の天守としては日本最古です。幾たびかの存続の危機を、市民の情熱により乗り越え、四百余年の風雪に耐え、戦国時代そのままの天守が保存されています」と松本市のホームページにあります。
天守閣は一度も戦乱に巻き込まれなかったそうで、結果としては「専守防衛」の象徴みたいです。


2. ところで前回のブログへの我善坊さん有難うございます。コメントを頂けると、こちらもつい補足したくなります。以下、まことに退屈な話ですが、英語と日本語の問題です。

(1)「過ちは繰り返しませぬ」という「原爆記念碑の碑文(の主語)は、「広島市民であり、全人類である」というのは妥当な、自然な理解だと思います」という我善坊さんコメントは、日本語の「主語」としてはそれもありと思います。


(2)しかし私が問題にしているのは、
「主語は“We”(われわれは)、これは「広島市民」であると同時に「全ての人々」(世界市民である人類全体)を意味する」
という碑文の作者の言葉です。これは英語の理解としてはおかしいのではないでしょうか。


「We」は一人称複数形の人称代名詞です。I & Othersです。
「We」とあれば、「私」が「Others(眼に見える他者)」即ち「他に慰霊碑に詣でる人」と共に「過ちは繰り返しませぬ」と祈るのが普通ではないか。
その中には例えば、当時ラドクリフ女子大生だった20歳の時に叔父のエドワード・ケネディ上院議員ととともに詣でた、あるアメリカ人(現駐日大使)も含まれましょう。


(3) 他方で日本語は何でもありですから、この主語が「人類全体」でも「地球市民」でもありでしょう。


しかし私個人としては、碑の前に立って、「人類全体の過ち」なんかではなく、「具体的・特定の人間の過ちなのだ。ということは自分を含めて誰だって犯す可能性のある過ちであり、自分自身の「悪」への告発、「罪」への訴追なのだ」と考えたい気がします。

「自分だって犯したかもしれない、そして、他の「私」もそんな風に考える」
それが「We」であり「私たち」ではないでしょうか。
70年前のあの日、私だって実は誰かを見捨てて逃げていたかもしれない。


(4). それが「I」であり、そのIがつながっていくことが「We」であり、 [We shall overcome]を共に歌う「仲間」であり、そういう風につながっていけば、世界は少しは良くなるのではないか。
「人類全体が、過ちを繰り返さない〜〜」、それって、何も言ってないのと同じではないの・・・・と皮肉の1つも言いたくなります。
もちろん、広島・長崎もアウシュビッツも「人類の悲劇」であるという事実を否定するつもりは毛頭ありませんが。


3. これは実は、日本語と英語の構造の違いが大きいかもしれません。
言語学者鈴木孝夫慶応義塾大学教授は、『ことばと文化』(岩波新書)などで、人称代名詞についても,基本的に違う言語であることを強調します。

すなわち、鈴木教授は、
(1) 例えば、「先生の言うことをちゃんと聞きなさい」と生徒に言う小学校の先生や、
「パパ今夜は遅いわね」と子供に語りかける母親や、
電車の中で、赤ん坊を抱いた自分の娘に向かって「ママ、座ったら」と譲る老婦人などの例をあげて、
「自分の夫がパパで、自分の娘をママと呼べる日本語は、気ちがいの言語だ」とあるトルコ人の大学教授が言ったのも「無理はない」と述べます。


(2) すなわち、
「日本人の日本語による自己規定が、相対的で対象依存的な性格を持っている」
「特定の、役割や上下関係を重視した相手から、自己を言語的に規定している」
「対象(相手)の規定が自己の規定に先行する」


(3) これに対して、
「インド・ヨーロッパ系の言語や、トルコ語アラビア語などの場合・・・一人称代名詞の働きとは、自分が話し手であることを、ことばで明示する機能・・・いま喋っているのは、他でもないこの俺だということをことばで示すこと、しかもこれ以外の情報は何一つ話し手に関しては与えないのが、例えば、ラテン語でegoと言い、英語でIという行為の意味なのである」(上掲書195頁)。


(4)そして、「We」はそういう「I」& Others です。
上に述べたインド・ヨーロッパ語の一人称の機能を、鈴木氏は「絶対的自己規定」とよび、それがない日本語には極論をいえば、厳密な人称代名詞は存在しない、とまで言います。

(5) そして最後に鈴木教授は、
日本人にある「自分を言葉で充分表現する意志の弱さ、それも相手の主張や気持ちとは一応独立して、自分は少なくともこう考えるという自己主張の弱さ・・」が日本語の構造そのものにあることを指摘します。


4. 異論のある方もいるかもしれません。
どちらがいいという話ではないと思いますが、日本語の構造が英語などとは大きく異なり、そこが個々人の意識や行動や文化に影響していることは否めないでしょう。


それでも、いまの時代、以下のようなことが大事ではないかと考えます。

(1) 天皇の言葉も首相の談話も慰霊碑の碑文も、英語に訳されて、英語で読み、英語の言語構造のもとで理解する人がますます増えて、かつ重要になってきているという認識をもつこと。

(2) そういう、いわば「英語の世紀の中で」(2008年小林秀雄賞を受賞した水村美苗著『日本語が亡びるとき』の副題)、
自分のことを「先生」や「お父さん」ではなく、英語の「I」や「WE」と同じ思考論理で捉え、考え、発言し、生きていく姿勢も、少しはもつべきではないかということ。

今回もいささか硬い・退屈な話になりました。
もちろん、「I」や「We」には出番がある訳で、いつでもどこでも「絶対的自己規定」をする必要はない。そこが逆に日本語の英語にはない優れた柔軟性ではないか。
セイジ・オザワ・フェスティバルで賑わう松本の街を歩きながらそんなことも考えました。