戦後70年安倍談話と英訳を読み比べる

1. 八ヶ岳山麓のこのあたり、お盆の今ごろが一年でいちばん人が多く、故郷への帰省、涼を求めて訪れる人たちで賑わいます。いきおい当方は、人込みを避けて近くを散歩するぐらいになります。

15日の土曜日は、前日のテレビで聞いた70年談話を新聞がどう報じているか、朝日、産経、日経(五十音順)の三紙を購入して読み比べました。


2. 見出しと特徴ある姿勢を中心に比較すると以下の通りです。
(朝日)
(1) 見出しはまず「「侵略」「おわび」言及」とあり、次が「引用・間接表現目立つ」です。「主語「私は」用いず」という見出しの記事もある。
(2) 識者のコメントは「評価する」の細谷慶応教授と「いろいろな妥協の産物」とする白井京都精華大講師とを並べて記載し、さらに別頁で「植民地支配も侵略も、主体が不明確で責任も不明瞭だ」とする三谷東大名誉教授(日本政治外交史)の談話を載せている。
(3) 社説の見出しは「何のために出したのか」とあり、これは隣の頁の西崎文子東大教授(アメリカ政治外交史)「何のために誰に向けたものか、わからなくなった末の発表でした」の批判に呼応します。

(産経)
(1) 大見出しは五段抜きで「「謝罪」次世代に背負わせぬ」とあり、その下にやや小さく「大戦へ深い悔悟の念」さらに小さく「侵略、植民地、永遠に訣別」とある。
(2) 識者のコメントはジャーナリストの桜井よしこ氏のみ。「「侵略」という言葉を使ったが、一人称ではなく歴代政権の姿勢として、普遍的な価値観としての言及だったのは、非常に良かった」「安易な謝罪の道をとらなかったことは、建設的だ」等高く評価している。
(3)社説の見出しは「世界貢献こそ日本の道だ」と一面大見出しに合わせて「謝罪外交の連鎖を断ち切れ」と主張する。

(日経)
(1) 「首相「反省・おわび」言及」という見出しに、「内閣の立場「揺るぎない」」と「謝罪に区切りにじます」が続く。
(2) 識者コメントは、御厨東大名誉教授が「広く国民に受け入れられる談話になった点は評価できる」「だが、・・・主語が不鮮明になったのは否めない」。大沼明大教授もこれに似て”イエス・バット”。細谷慶応教授が朝日でのコメントと同じ。
(3)社説は、「おおむね常識的な内容に落ち着いたことを評価したい」「憲法9条を引用したような言い回しは憲法改正論議にも影響を与えよう」として見出しは「70年談話を踏まえ何をするかだ」とあり、典型的な日経の「イエス・バット」のスタイル。
・・・・・・
というようなことでしょうか。
一点補足すると、日経は、4面で「持論抑え「おわび」加筆」「支持率低下、安保法案が影」との見出しのあと、談話の作成に携わった一人は「首相は本音は納得していないんじゃないか」との見方も紹介しています。


3. 英訳はどうなっているか?
――朝日は3面で「主語「私は」用いず」と「首相個人の意思あいまい」という2つの見出しを掲げて、この点にいちばん批判的です。
そこで、幸い、新聞には「日本政府発表の英訳」が載っており、言うまでもなく英語の文章には主語が不可欠ですから、ここをチェックしてみました。

(1) たしかに、談話(日本語)に出てくる主語は「私たち」「日本」「わが国」「私たち日本人」の4つで「私」は出てきません。これらは英訳ではそれぞれ、「We」「Japan」「JapanあるいはOur country」「We Japanese」です。


(2) 談話で主語が抜けていてこれを英訳で補足している箇所がいくつかありますが、
全体を3部に分けると、この部分は主に第2部です。
(3) まず第2部の冒頭、
「戦後七十年にあたり、国内外に倒れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ〜〜哀悼の誠を捧げます」の英語の主語は「I」です。例えば,”I express my feelings profound grief and my eternal ,sincere condolences. ”

(4) 次に「戦火を交えた国々でも〜〜〜〜〜戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません」の英訳の主語は、「We」。


(5) 次の「何の罪もない人々に〜〜」で始まる段落の最後「この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません」の主語は、再び
“I”です。
—例えば、”I find myself speechless and my heart is rent with the utmost grief”.
(6)最後に、「二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。・・侵略、戦争、いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、二度と用いてはならない。〜〜」の英訳の主語は再び”We”です。
”We must never again repeat the devastation of the war ”.

4. 以上から言えることは、
・「哀悼」や「断腸の念」など気持ちを表す場合は、「I=私」を、
・「戦争を繰り返してはならない」のような決意を述べる場合は「We」を使っているということです。
問題は、この「We」を「私たち・われわれ」と訳すとしても、それは具体的に「誰のことか?」ということです。
例えば、日本国憲法の前文「われわれ日本国民は〜〜この憲法を確定する」の主語の英訳は”We, the Japanese People ”です・
とすると、談話の英訳”We”も、「私たち日本国民は、戦争を繰り返えしてはならない」となるか?

ところが面白いことがあります。
談話の最後は「我が国は〜世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります」とあり、続けて「〜そのような日本を、国民の皆様とともに創りあげていく、その決意であります」で終わりますが、この英訳の主語は”We”です。
”we are determined to create such a Japan together with the Japanese people ”とあり、この英訳から和訳し、”We”を「私たち日本国民」と訳すと、「そのような日本を、私たち日本国民は、国民の皆様とともに創りあげていく・・」というおかしな文章になります。
英訳は主語を出さざるを得ないために、原文の奇妙さが明らかになった・・・・


6.(結論)以上を整理すると、
(1) メディアも識者も、「主語「私は」用いず」(朝日)「主体が不明確」(日経)と批判したり、「一般論で述べた」と喜んだり(産経)している。


(2) しかし、英訳では、抜けている主語は、[I]か[We]を補っていて、主語は明確である。
問題は、村山・小泉談話での「I」が「We」になっている。
この「We」とは誰のことか?
(3) 普通は、憲法の用例のように、「私たち日本人」の筈。
(4) しかし、こう理解すると最後のセンテンスがおかしくなる
(5) そこで、英訳を読む人たちは、(おそらく喋った本人の意に反して)「私たち安倍内閣は〜」と受け取って、評価するのではないか。

――要は、談話の原文におかしなところがあり、したがって英訳もおかしくならざるを得ない、ということでしょう。