『<辞書屋>列伝、言葉に憑かれた人びと』(田澤耕、中公新書)とOさん


1.我が家の小さい桜も散ってしまいましたが、隣家のなしの花は桜とほぼ同時に咲き始め、まだ咲いています。お隣に感謝しつつ書斎の窓から眺めては楽しんでいます。
花を愛でるだけでなく、友人のOさんが送ってくれた掲題の書を少し遅れましたが読み終えました。
昨年1月に出た本ですが話題になったようで、澁谷の本屋には平積みになっています。
「辞書を編んだ人々の熱きドラマ」とは帯の文句ですが、「言海」「オックスフォード英語辞典」などを初め、「ヘブライ語辞典」「スペイン語用法辞典」など、見たこともない辞書について、どんな苦労と情熱をもって作成したかの「物語」を取り上げています。

2. ここでは、第6章「西日辞典」について簡単に紹介します。
(1) これは「日本ではじめてのスペイン語辞書、しかもメキシコで編まれた、明治時代に同地に移民した人たちの怨念が込められた辞書」の物語。

(2) 1893(明治25)年外務大臣を辞めた榎本武揚は「殖民協会」を作って会長となり、メキシコ南部への移民計画をすすめ、資金を集めて土地を購入し、97年募集に応じた「榎本殖民団」36人が現地に向かう。
しかし当初の夢とは裏腹に開拓は苦難をきわめた。最後に残ったのは6人、到着時23歳の照井亮次郎がリーダーとなって協同組合を結成し、徐々に、軌道に乗りだすのに10年ほどかかったところで、悲願の辞書作成を始める


「(悲願は)入殖直後の惨めな体験から発した」もので、「移民たちは一言のスペイン語も知らなかった。もし言葉が通じて現地の人たちと理解しあえていたら、その協力を得て」悲惨な事態はもう少し改善されていたかもしれない、という悔いからだったという。
照井は日本から同志社大学中退の村井次郎を呼び寄せて、辞書作成にあたらせる。西英辞典を取りよせて英語の部分を日本語に訳していくことを基本に作業した由。27歳の村井は苛酷な状況で1914年から3年かけて脱稿して帰国する。日本で専門家の校閲を得たり、出版資金の調達に努力したりさらなる苦労を経て、1925年出版できた。

編纂者として照井の書いた序文には――
・1つの見出し語に適切と思われる訳語を1つか2つに絞って入れた。
・なるべく小型で殖民者、旅行者の便利を図りたかった。
・訳語に日本語だけでなくローマ字も入れて、「日本語を習いたいスペイン語国民と殖民地で成長して漢字を知らない若き日本民族のためを」考えた ――
とあるそうで、著者は、「規模、目的、対象者がしっかり決まっていないと良い辞書にならない」としてこの西日辞典はこの点を高く評価しています。
日本ではじめての本格的スペイン語辞書がこのように明治のメキシコ移民のイニシアティブと長い時間をかけた苦労で出来上がったことを初めて知りました。


3. 次に著者の田澤さんと彼の最初の職場についてです。
こういう辞書の作成に情熱を掛けて取り組む人たちのことを、この本の著書は「辞書屋」と呼んでいますが、実は彼自身が、2002年に「カタルーニャ・日本語辞典」を作成しています。
「本書で見てきた偉大な「辞書屋」たちに比べれば、「ちっぽけな」という形容詞をいくつ重ねてもまだ足りないような存在」と謙遜しておられますが、立派なものです。

しかも田澤さんは、私より14歳年下で今は法政大学教授ですが大学卒業後旧東銀に8年勤務した、かっての職場の後輩です。
なぜ銀行を辞めて「辞書屋」になったかの経緯を「終章、辞書と私」に書いておられ、ここが必要だと編集者に勧められたとありますが、編集者の狙いはさすがで、これがあるので、なぜこの本を書きたかったのかという著者の思いが十分に伝わってきます。


(1)「大学時代の私はどう見ても褒められた学生ではなかった。自分がやりたいことを見つけられず、授業はさぼってばかり。・・つまらない大学生活を送ってしまった(これは私を含めて多くの人にあてはまるでしょうが)。


(2)そういう若者が旧東銀に入って3年目、第1志望の英語圏でも大学での第2外国語のフランス語圏でもなく、全く知らない言語であるスペイン語の語学研修生に選ばれてバルセロナに派遣される。
そこで「言葉」にめざめ、「銀行の仕事よりも言語にかかわる仕事のほうが向いているのではないかという思い」が湧いて、退職して、退路を断って再びスペインの大学院博士課程に自ら留学し、学問に進もうと決意するという軌跡が心に残ります。

(3) 結果的に1人の人間の人生を決め、しかもそれが「カタルーニャ語辞典」の作成という素晴らしい業績にまで結びついたというのは、もちろん意図したわけではないにせよ、東京銀行という職場があったからだとも言えるでしょう。
東銀というのは、結果的にせよ、こういう人物を育てた功績は大きい、素晴らしい職場だったのではないかとあらためて感じました。
 しかも「金をかけて育成した人材を快く送り出してくれた銀行に」感謝する、と本人が書いているように、「語学研修生」とは仕事から解放されて会社の費用で勉強させてくれるシステムです。「快く送り出す」懐の深さも、営利企業の限界を超えて大したものだと思います。

(4) ここで著者が辞書づくりについて書いているところも面白かったです。
「文章を長い時間書き続けるのは苦手だ」「私が、辞書の仕事に向いているかも、と思うのは、集中した状態を長く持続できない・・からである」というのはもちろん謙遜でしょうが、それでも辞書は「一項目の長さがしれている」からいい、「野球や相撲のテレビ中継をつけておいて仕事をするのもいい」という指摘は興味深いです。私はむしろ「長い物語」を読みふける方が好きで、やはり、残念ながらこういう能力は全くないなと認識しました。


4.最後に、この本を送ってくれたOさんについてです。
彼は1年下のやはり旧東銀の仲間、しかも田澤さんと同じく、もともとはスペイン語は専門ではなく、それが「スペイン語の使い手」として本書で「もう一人の辞書屋Oさん」として紹介されており、それで彼がこの本を送ってくれたのです。著書の「カタルーニャ語辞典」を「通読」し、いろいろと間違いを指摘してくれたと、感謝とともに名前をあげています。
Oさんは年齢が近いのでよく知っており、しかも彼は「英語の研修生」として私と一緒にニューヨークで働いたこともあります。もとは英語が専門なのにラテン系の多いニューヨークに住んでスペイン語の魅力に取りつかれて以後はずっとスペイン語圏に勤務しました。

著書はOさんについて「言語感覚が鋭い」と書いており、私はもちろんのこと誰もができることではないでしょう。しかしそれだけではなく、やはり東銀という環境があったからこそ、その「言語感覚」が花開いたのだろうなと思いました。
Oさんと著者との交遊も気持ち良く拝読しました。

僭越ながら、こういう二人の後輩が居たということを誇りに思いながら気持ちよく読んだ本でした。