『僕たちのバルセロナ』、そして夏の終わり

  1. 前回紹介した『僕たちのバルセロナ』(田澤耕)の語り手は、6歳の長男悠君です。

(1) 日本の幼稚園から、いきなりバルセロナの小学校1年生になりました。

言葉は一切分かりません。

(2)いちばん困ったのが「トイレに行きたくたって「行きたい」って言えないんだよ。

悠君はほぼ限界まで我慢して、休み時間まで待って、「ズボンのおチンチンのあたりをおさえながら出て行く子がいる。「僕は「これだ!」って後について行った」。

(3)「最初にわかるようになったのは友だちの名前だ。・・・先生が名前を呼ぶとだれかが返事をする。そのたびにその子の顔をじっと見てれば、一週間もするとだいたい顔と名前がいっちするようになる。「はい」は「シー」だってこともわかった。」

 

(4)そして「バルセロナの小学校じゃ、みんな名前で出席とるんだ。「くん」も

「ちゃん」もなし。びっくりするのは、生徒が先生をよぶときもそうなんだよ。うちのクラスの女の先生のことをみんなは「マルセー」ってよんでる。「マルセー先生」じゃなくって。これは気に入ったね。日本で先生のことを、たとえば「チエコ」なんてよんだらおこられちゃうよね」。

 

(5) こんな風に悠君は、観察し、異文化を体験していきます。

2.田澤さんの博士号取得のためのバルセロナ大留学は、1993年40歳のとき。

(1)「あとがき」には、

「29歳で勤めていた銀行を辞めて教員に転職。就職難の中、やっと就けた専任教員の職を投げ打っての挑戦です。最低二年間。帰って来てからのポストの保証は一切なし。まさに背水の陣でした」。

 

(2) 実は私は1978年、39歳で2度目のNYに行き、半年後に妻と当時7歳と5歳の娘が来て一緒に住みました。NY郊外の静かな美しい住宅地でした。

 

(3) 私の場合は自分の意思でも「背水の陣」でもなく、かつて田澤さんも勤めた銀行の転勤ですから、その点は大いに異なります。

 ただ、ほぼ同年齢の2人の女の子は、悠君と同じく言葉も文化も分からない環境にいきなり放り込まれた訳です。

 悠君の異文化と格闘する日々を読みながら、「父親は仕事に忙しくてあまり構ってやれなかったけど、うちの娘たちも苦労しただろうな」と改めて40年以上昔を思い出しました。

  1. ところで、蓼科の夏もそろそろ終わりです。

(1)稲穂は色づき、蕎麦の花が盛りです。

昨日は、友人夫婦との畑の後始末を半分しました。夕方は友人宅に長女夫婦も入って6人が集まり、少し早い「収穫祭」の食事会でした。

当地もコロナは収束せず、地元に合わせて我々も外食は極力控えています。

(2)買い物は行きます。お盆の頃に比べて人出はずいぶん減りました。

高原のお菓子屋さんで、おいしいお菓子を買ってきました。

長女とほぼ同年配か、女性が一人でやっています。左の薬指に指輪はありません。

 

(3)店の名前は、「グリュスゴットgrussgott」。

どういう意味か訊いたところ、「ドイツ南部あたりの方言で、“こんにちは”の意味です」と教えてくれました。標準語なら「グーデンターク(直訳は「良い日」)」でしょうか。

オーストリー風アップルパイ」など、なかなかいけます。

ウィーンのポスターも飾ってあります。

 

(4)いろいろ質問したい気もしましたが(私はお店の人と喋るのが好きな方です)、不躾なのでそれ以上はやめて、引き上げました。

彼女も幼いときに、両親に連れられて、ウィーンででも過ごしたかもしれない。そこで異文化を知り、おいしいお菓子にも巡り合って、その味を信州の高原でも知ってもらおうと頑張っている・・・・。

 そんな「物語」を勝手に想像しました。