遺伝子の旅とドラえもん、寒い京都と上善寺

1. 前回、中学の入試の問題
「ロボットのドラえもんが如何に精巧であっても、生物として認められることはありません。それはなぜですか。理由を答えなさい」
を紹介しました。

70代の同期生のグループ・メールではまだ会話が続いています。
・某民放のテレビでこの問題が報道された由。
・「ドラえもんは細胞から構成されていないから」 というのが、模範解答なのでしょう。しかし、子孫を残せない・自己増殖できない・自分でエネルギーを補充できない・・・などに触れていれば、正解と思います」というコメント
・学校側は「まだ解答は公表していない」とのコメント
・何れにせよ、必ずしも正解が1つではなく、夫々が自分の答を考える、というところがいい
・「遺伝子がない、子孫を残せない」とともに、「ドラえもんは、うんち・おしっこはしない」というコメントもありました。

みんな、真面目になって考えていることころがいいと思います。
私は昨年末の東京新聞に載った梅原猛氏の「遺伝子の旅は続く」という随想を思い出しました。

「遺伝子は過去において永遠といってもよい無限の長い長い旅をしてきたのである。
そして・・・未来においてまた永遠といってもよい無限の旅をするであろう。
それゆえわれあれは過去と未来において二つの永遠性を共有していることになる・・・
仏教でいう仏性とは、このような永遠をはらむ遺伝子のことをいうのであろうか。
・・・
そのような仏性すなわち遺伝子の存在を認識するとき、われわれは生命への畏敬の念をもち、自己の生命はもちろん他人の生命を愛さずにはいられない・・・・・」



2.ところでFBの仲間長谷川さんが写真のタグ付けをしてくれました。
私にはやり方も分からずFBもまめには見ていないので、お礼を言うだけですが、写真は京都の、江戸時代・享保の頃から続くという古い料理屋「松長」で若女将が撮ってくれたものです。80代から60代まで男が並んでいます。
http://www.facebook.com/n/?photo.php&fbid=432664986813432&set=np.77388698.100002034153468&type=1&mid=78042e0G5af389b8f7fcG49cdb9aG5&bcode=1.1360414252.AblkMWTsOO3yKd8E&n_m=takashik%40star.ocn.ne.jp&lloc=1st_cta
写真には「遺伝子の旅」と題をつけてもよいかもしれません。


2. 京都には2月は2回行く予定ですが、最初の8〜9日は寒かったです。
この間、東京も同じく寒い日でしたが、東京は抜けるような青空と空っ風の寒さ、対して京都は、どんよりと曇った、なかなか陽が出ない、時に小雪の舞う冬空です。
ロンドンでは新聞の天気予報欄は冬は連日「overcast(曇り)」と書いてこういう日が続きますが、京都もよく似ています。

朝食の「イノダ」で柳居子さんに会って
「今は使ってはいけないそうですが、京都はやはり裏日本の気候ですね」
「裏日本がいけないとすると、お茶の裏千家はどうなるんでしょう」
なんていう会話を交わしました。


3.9日(土)に昨年末に99歳で亡くなった叔母の、満中印の法要と納骨式が鞍馬口の上善寺でありました。
上善寺は浄土宗の寺で母の実家の墓があります。
ここが何と言っても寒かったのは(「寒い・寒い」を連発しますが)立派な本堂に火の気がまったく無かったこと。
「冷凍庫の中みたい」と言い合いながら30分、ご住職の法華経の読経を拝聴しました。
東京のお寺(例えば、妻の実家の墓のある谷中天王寺)には最近、本堂に床暖房を入れているところも少なくありませんが、この点もさすがに京都だわいと感心しました。

3. その代わり、ご住職が「寒いでしょうから、お話は別室で・・」ということで、いつもは本堂で伺う法話を暖かな部屋で伺いました。
ご住職は何でも仏大の学長でもある学者さんだそうで、いつも短いが、考えさせられるお話があります。
他方で天王寺も由緒あるお寺で床暖房も有難いですが、お話はあまり聞いたことがありません。


(1) この日の話はまず「満中陰」の意味についてです。
恥ずかしながら、私はこれが49日の法要を意味する言葉とは今日まで知らず、勉強になりました。
不勉強で少し生半可な知識かもしれませんが、死んでから7日ごとにりんね転生の時間があり、49日でそれが終わる、「中陰」が満る、のだそうです。


(2) また「仏教はかんたんに言えば、私自身にとらわれず、私自身をときはなつ教えです」とも言われ、以下の例をあげて話されました。
例えば、電車の中で老齢の婦人に、座っていた席を譲る・・・
もちろん譲らなければならないという規則があるわけではないが、譲ってあげたとすれば、それは「道徳」の世界。
これに対して、「譲らせていただいた」「そういう機会が私に与えられた」・・・という風に考えるのが仏教である。


(3) もう1つ、仏教とキリスト教とは「時間観」が違う、とも言われました。
・死についていえば、臨終という言葉を現代は「ご臨終です」とお医者さまが言うように、瞬間としてとらえている。
しかし仏教の「臨終」は瞬間ではなく、言葉が意味するように、時間の経過を伴うもの。
「続く」時間である。


・また生についていえば、満年齢と数え年齢とは時間観が違う。
満年齢では、何月何日に生まれた「瞬間」を大事にし、そこから1年経ったところで「満1歳」を迎える。
対して「数え」では、生命が宿ったときから時間は経過しており、新しい年を迎えて(実際には12月に生まれた場合であっても)1年経った、ということで「1歳」となる・・・


4. 普通の方にとっては珍しくもない話でしょうが、こういう方面に無学な私には勉強になりました。
「臨終」が死に向かって経過する、死の直前にいたる時間とすれば、私たちは「日々が臨終」ではないか?
そんなこともぼんやり考えました。